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2020年1月21日

民医連綱領 実践10年へ 地域の人や仲間の思いに応えたい 届いたサケにささえられ 倒産から再建、そして今 山梨勤労者医療協会

 1983年の山梨勤労者医療協会(以下、山梨勤医協)の倒産・再建は、民医連の大きな教訓となりました。『学習ブックレット 民医連の綱領と歴史』の第7章にも掲載されています。そこで紹介されている山梨勤医協職員の食卓の風景。北海道民医連から支援として送られたサケに驚く親子の様子です。その時の子らはいま、民医連でともに働く仲間です。話を聞きました。(代田夏未記者)

 山梨県民の約10%の医療を担っていた山梨勤医協が倒産する―。それは深刻な事態でした。破産を回避し、職員の団結をはかり、医療を継続して協力債を返済する再建の方針を立てました。「山梨から民医連の灯を消すな」をスローガンに、全国の仲間の支援によって再建に向けてすすみ始めました。8000人もの債権者を何度も訪問し、再建計画の同意を求める大運動を行いました。
 当時法人事務局で働いていた橘田まつ江さんは、再建計画の同意をもらうために、富士山の麓に住む患者さんのお宅を何度も訪ねました。何十回と訪問するうちに「あんたたちが悪いわけじゃないもんね。権利放棄すればいいと思うけんど、病院と縁が切れちゃうからそれはしないよ」と言われました。「富士山を見るとその時の思い出がよみがえる。この人たちのために再建させなければと思った」と話します。
 再建に向かう中、力になったのが全国の民医連職員からの支援です。カンパや人的支援、北海道民医連からは1000匹以上のサケと寄せ書きがボーナスなしで働く職員に送られてきました。「患者さんや地域の人たちに加え、仲間のささえがなければ私たちは立ち上がれませんでした」とまつ江さん。「債権者に返したい思いとともに、仲間の思いに応えたい気持ちも大きかった」と話します。
 まつ江さんの心に残っているのは、バス3台で支援に来てくれた北海道民医連の職員たちの姿です。「バスに乗って案内した時の光景は今でも覚えています。泣きながら『ありがとうございます』しか言葉が出なくて。言葉にならない思いがこみ上げました」と涙ぐみます。

■民医連で働けて幸せ

 まつ江さんが北海道から届いたサケを自宅へ持ち帰ると、初めて見る大きな魚に子どもたちは興味津々。当時6歳の姉が「すごい大きな魚だね」、3歳の弟は「誰がくれたの?」。まつ江さんは「ひとみやすぐるがおりこうさんにしているから、サンタさんがくれたんだよ」と涙ながらに話しました。その姉弟は今、やまなし勤労者福祉会で働いています。
 話を聞いた姉の橘田ひとみさんは「当時の記憶はなく、入職してから倒産のことを知りました。当時、家庭では大変さを感じなかったのは、全国の仲間の支援があったからだと思いました」と言います。弟の橘田卓(すぐる)さんは入職のきっかけについて「さまざまな事業所を見学した中で一番“ホッ”としたのが民医連の事業所でした。職員の笑顔に『ここだ!』と思った」と話します。また、民医連綱領を学び「人として生きていくうえで大切なことが綱領に詰まっている。そんな民医連で働けて幸せ」と言います。

■地域のニーズに応えて

 2人が働くやまなし勤労者福祉会は、3月末に看護小規模多機能を中心とした新規事業を開設予定です。「誰のために、何のために」この施設が必要なのか話し合い、友の会や地域の人へ説明会を行いました。「みんなの施設はみんなで力を合わせて」と寄付金の訴えも。班会でも、「24時間体制で支援してくれるこの施設を私たちの地域に」と学習し、士気を高めました。自治体の協力を得て行った学習会は、130人ほど参加し、多くの寄付金が集まりました。
 その運動の中心を担ったのは、峡東健康友の会の会長、名取春雄さん(69歳)です。「患者の立場に立ち、人権を重視している人たちが施設を運用していくことに期待が寄せられている」といいます。「地域のニーズに応えられる施設に」と、これからの発展に期待しています。

(民医連新聞 第1708号 2020年1月20日)

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