民医連新聞

2003年7月21日

被爆者の命かけた訴訟を支援

全国にひろがる「集団訴訟」
 原爆認定申請をしても、国は被爆した距離などを機械的にあてはめて「放射線の影響ではない」と却下します。このような認定制度を改めさせようと、全国で被爆者が「集団訴訟」に立ち上がりました。

 訴訟に先だち、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の「原爆症の認定申請」の呼びかけに、被爆者四九六人が申請。しかし、そのほとんどが却下に。 「私たちの苦しみの原因は原爆。これをはっきりさせなくては死ねない」と訴訟が始まりました。
 日本被団協の「原爆症認定集団提訴運動」に応え、三次にわたり、計七三人の被爆者が各地裁に提訴(図1)。うち四月に提訴した長崎の被爆者一人は五月に死去。まさに時間とのたたかいです。

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被爆者に冷たい被爆行政
 原爆が投下された広島・長崎。一九四五年の暮れまでに約二一万人が死亡。生きのびた数十万人の被爆者も年を追うごとに死亡し、現在被爆手帳をもっている人は約二八万五六二〇人。ほかに手帳の交付申請をしていない人もいます。
 被爆者の疾病が原爆の影響により医療を要する状態にあると厚労大臣が認めたものが「原爆症」です。国は認定の基準を厳しくしているため、認定被爆者はたった一%以下です(図2)

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戦争を反省しない姿勢の表れ
 「およそ戦争という国の存亡をかけての非常事態のもとにおいては、国民がその生命・身体・財産等について、何らかの犠牲をよぎなくされたとしても、それ は、国をあげての戦争による、一般の犠牲として、すべての国民が受認しなければならない……(一九八〇・厚生大臣の諮問機関答申)」。これが行政を貫く考 え方です。
 これまでに在外被爆者も含めて一三の裁判がたたかわれてきました。松谷英子さんの長崎原爆訴訟は、国が地裁・高裁で敗れても控訴したため、最高裁で決着がつくまで一二年間もかかりました。しかし国は被爆行政を改めようとしません。
 今回の集団訴訟は、多くの被爆者の姿から、被爆者の苦しみの責任を国に問うものでもあります。


 

二度と被爆者出さない決意
―被爆問題交流集会開く―

 6月14~15日、第8回被爆問題交流集会を8年ぶりに広島で開催。集会では、各地ではじまった原爆症認 定集団訴訟の意義や目的への理解を深め、民医連がとりくんでいる支援活動を交流すること、被爆者医療の課題と発展方向の確認、原子力災害での緊急医療の問 題について、原発や核燃サイクル施設に近接する県連が住民との協力を視野に入れた対応などの基本点を確認しました。

 二五県連の代表と、全日本民医連関係者、三人の医学生を含め、七〇人が参加。
 原爆症認定集団訴訟を全日本民医連として全面的に支援し、核兵器廃絶と被爆(被曝)医療を強めよう、と熱のこもった集会になりました。基調報告で今後の対応の重点として、以下の七点が提起されました。
 (1)原爆症認定集団訴訟をささえる集団的な協力体制の確立、(2)あらゆる院所で被爆者医療・福祉の問題を日常医療活動に位置づける、(3)被爆者 データベース登録運動に継続的にとりくむ、(4)被爆二世健診のとりくみを強める、(5)世界の放射線被害に注意をむける、(6)原発・核燃料施設の労働 者、周辺住民のいのちと健康をまもる課題の重視、(7)五〇年にわたり継続されている被爆者医療の担い手の育成。

 記念講演は、東海村のJCO臨界事故の被曝者の治療にあたった医師・前川和彦さんです。同氏は日本の被曝医療体制の変遷を報告し、臨界事故で被曝した三 人の治療にあたった経験を語りました。放射能が人体に与える影響のすさまじさ、いまの医療では救えないものであることを証言するものでした。また、政府の 被曝医療体制には「命の視点」が欠けていると指摘しました。
 また、原爆症認定訴訟弁護団の事務局長をつとめている宮原哲朗弁護士は、「多くの弁護士がこのたたかいを支援するのは、命がけでたたかう被爆者の姿に共感したから」と述べ、民医連への期待も語りました。
 参加者からは二つの指定報告と八演題が発表、活発な質問や意見がかわされました。


 

国の核政策も転換させたい
岩佐幹三さん(被団協集団訴訟運動推進委員長)の話

 国の原爆被害に対する姿勢の一番大きな問題は、被害を狭く小さくとらえようとしていることです。
 あの日から今まで、苦しみ続けている人びとを国は切り捨ててきました。一・五キロの地点で被爆し胃ガンになった男性が認定されないような、科学的に問題のある基準です。
 この仕打ちの根底に、核兵器の被害を過小に見て、使うことを容認する姿勢があると思います。
 この裁判は、原爆症認定の審査基準と制度の改善を求めるにとどまらず、国の原爆=核兵器に対する政策を厳しく追及し、核政策の転換を迫ることにつながるはずです。
 被爆者は戦争と核兵器を告発する生き証人です。戦争が人間性に反することを訴えたい。被爆者に心を寄せ、平和を願う多くの人に支援を呼びかけます。


 

青年たちも“いっしょにたたかう”を

 【東京発】「原爆症認定訴訟」に立ち上がった被爆者に共感した東京の青年たちが「いっしょにたたかいたい」と、「原爆症認定運動を支える青年の会」(仮称)をつくり、裁判傍聴や署名活動などにとりくんでいます。
 六月二八日、立川相互病院の青年職員と地域の青年・学生が「原爆被害者の体験を聞き 語り合う青年のつどい」を開き、二六人が参加(写真上)。証言者は立川相互病院の患者・久慈敏子さん(76)。広島市内の軍需工場で被爆、当時一八歳でした。
 焼かれた皮膚を垂らしながら歩く被爆者の行列、市内で大量の死体を焼く臭いが何カ月も続いたこと。被爆者は死ぬまで被爆の恐怖から離れられないこと。被 害が子や孫にまで及ぶのではないかとの不安や核兵器の恐怖を自らの実感を交えて話しました。そして「被爆体験を語るのは苦痛だが、二度と被爆者を出さない ために、話さなくちゃ」と、思いを語りました。
 「初めて被爆者の話をきいた」「自分の地域でもこういう企画をもちたい」。参加した青年たちからは率直な感想が。
 今回の企画はビラを配布して「呼び掛け人」を募りながら参加者を集めました。
 法人も地域も違う事業所の青年職員もかけつけ、呼びかけ人になった青年職員は二二人に広がりました。

(山城直子・立川相互病院、看護師)

支援を全道にひろげ

 【北海道発】第一次で札幌地裁に提訴したのは舘村民さん、柳谷貞一さん、安井晃一さん。みな七〇代後半です。
 三人は広島の陸軍船舶通信隊に所属し、爆心地からおよそ一・八キロのところで被爆しました。その場で死亡した仲間もいた中、外傷や放射線による急性の症状を脱して生きのびました。ずっと全身の不調や白血病などに悩まされ、ガンを発症、原爆症の認定を申請しましたが却下。
 三人を支援するため、「北海道原爆訴訟支援連絡会」を結成。すでに九九年一〇月に単独で提訴していた安井さんを支援する「連絡会」が活動しており、それ を基盤に全道の被爆者支援をすすめています。会員はいま六五団体と五二四個人。署名、宣伝をすすめ、裁判には四〇~五〇人で傍聴席を埋め、その内容を紹 介。結成総会ではさらに支援の輪をひろげるため、市民への働きかけを強めようと申し合わせました。
 原水禁世界大会などに参加し、平和を学んだ職員や青年たちが「支援する会」に参加。提訴後は、各地域ごとの会ができ、「被爆体験を聞き励ますつどい」も行われています。

(橋本泰之・北海道民医連、事務局)

国の核政策変えさせたい

 【静岡発】私は被爆問題交流集会の分科会で「末梢血T細胞を用いた被曝線量推定」を発表し、あらためて自分に被爆者支援への気合いを入れ直しました。
 私が核問題を最初に意識したのは、小学校六年生の時。当時、中学生がつくった原爆詩を見て、どんな仕事をするにしても「被爆者を支援したい」という思い を強くもちました。そして、医師になり民医連に参加したことで、その思いは身近なものになりました。
 私が被爆者支援にとりくむもう一つの理由に、被爆者に対する国、原子力産業の不誠実さがあります。国は原爆症認定をきびしくし、原子力関係業者は、交渉しようにも門前払いです。
 被ばくの残虐性は放射線による晩発障害にも象徴されます。多くの被爆者が、自分の体調不良と放射線の関係を心配しています。この部分になぜ国は目を向けようとしないのか、怒りを感じます。
 今度の集団訴訟では、原爆症認定の枠にとらわれずに、国の核政策そのものを変えさせる決意です。
 入職後、被爆問題に関われませんでしたが、私も「集団訴訟」とともにスタートラインに立つ思いでいます。

(唐澤裕史、浜松佐藤町診療所・医師)

(民医連新聞 第1312号 2003年7月21日)

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