MIN-IRENトピックス

2020年8月4日

戦後75年 
いま、語らねば

 戦後75年、戦時中の記憶が確かな方は80代なかばになろうとしています。
 「戦争体験を語れる人は、これからますます少なくなってしまう」との危機感が編集部にあります。
 75年の節目の年に、いま、語らねばの連載を始めます。


孤児になった私

東京大空襲

田中武夫さん(83歳)
(神奈川北央医療生協組合員)

田中武夫(たなか・たけお) 神奈川県相模原市在住。松下電器(現・パナソニック)社員を経て、1995年から相模原市議会議員(3期)。70年代後半から長女の病気をきっかけに民医連とかかわる。長女は共立高等看護学院(山梨)教員、長男はせいきょうあつぎ診療所(神奈川)事務長の民医連一家。相模原市平和委員会理事長、原水爆禁止相模原協議会代表理事を務める

田中武夫(たなか・たけお)
神奈川県相模原市在住。松下電器(現・パナソニック)社員を経て、1995年から相模原市議会議員(3期)。70年代後半から長女の病気をきっかけに民医連とかかわる。長女は共立高等看護学院(山梨)教員、長男はせいきょうあつぎ診療所(神奈川)事務長の民医連一家。相模原市平和委員会理事長、原水爆禁止相模原協議会代表理事を務める

 終戦の年、国民学校2年生(小学2年生)の私は東京都荒川区の道灌山にあった伯父と伯母の家に住んでいた。その頃は本土への空襲も日増しに激しくなり、毎晩のように伯母に揺り起こされては防空壕に入った。東京大空襲のあった3月10日の夜も、半分眠った状態で防空壕にいた。
 「外の様子がどうもおかしい」と誰かが言ったその時、伯父が大きな声で怒鳴った。「みんな逃げるんだ」。ただごとではない気配がして外へ出た。玄関まで来た時、はっとした。大切なものを防空壕に忘れてきたのだ。「逃げる時は必ずこれを持っていくんだよ」と母から聞かされていたリュック。中には下着や薬が入っていた。
 私は防空壕へ走った。しかし壕の少し手前のところで、ズシーンと大きな音がして、何かが目の前に落ちてきて炎となって広がった。「武坊!」。伯母の叫び声がした。私はリュックをあきらめ玄関へ走った。
 外へ出ると真昼のように明るかった。家が燃える炎とB29が落とした照明弾のためだ。伯母と私はすぐに走り出した。近所の人を合わせて5人くらいの集団だったろうか。私は伯母の手をしっかり握ったまま、火の粉の川となった道路を走った。
 家々はゴーゴーと音を立てながら燃えている。叫び声、泣き声、炎と強い風の音。私は熱くもなく、恐くもなく、ただ走り続けた。
 焼夷弾が落ち炎が広がるたびに進路を変えた。どれくらいの時間、どれほどの距離を走って逃げたのか記憶にない。やっと燃えていないお寺の本堂に落ち着いた。「こんなことだったら、しま子のところにいた方がよっぽど良かったね」と伯母は言った。
 しま子とは私の母のことである。私の実家は江東区砂町にあった。下町では早くから地方へ学童疎開が行われていた。集団疎開の大変さを聞いていた両親は先生に頼み込み、一人っ子の私を伯母の家に預かってもらっていた。

跡形もなく焼けた家

 やがて夜が明けてきた。みんなそれぞれ自分たちの家に帰り始めた。私たちも家に向かった。疲れたのだろう。足どりも重く、口数も少なかったが、私は元気だった。母が息せき切って来る姿が、何度も眼に浮かんだ。
 伯母の家に近づくにつれて焼け方がひどくなり、やがて焼野原となった。伯母の家も跡形もなく焼けた。「防空壕はどのへんだろう」。私はリュックが気になっていた。そんな時、小松川(江戸川区)の叔父がやって来た。煙突の中から出て来たように顔はススで黒く、髪はちりちりに焦げていた。
 「その格好はどうしたんだい!」。伯母は叫ぶように言った。「どうしたもこうしたもねえ、とにかく大変だ。俺たちはなんとか助かったが、砂町の兄貴のところはもっとひでえはずだ」。叔父の言葉は真に迫っていた。
 私は叔父と砂町に行くことになった。「武ちゃん、お母さんはきっと生きているからね。叔父さんから離れるんじゃないよ」。伯母はそう言って見送ってくれた。
 私たちは上野に出てそれから深川の方へ歩いた。大勢の人がリヤカーを引いたり、荷物を背負ったりしてぞろぞろと歩いていた。みんな下町から離れて行く。私たちとは反対だ。
 私は眼をこらし、できるだけ一人ひとりの顔を見るようにした。母であり、父であるかもしれないからだ。  
 「武坊、お前の母ちゃんはきつい人だったからな、こんなことで死にゃしない。どっかで生きてらぁな」。叔父はそう言って励ましてくれた。

焼け焦げた死体の山

 しかし砂町に近づくにつれ、被害は途方もないことが分かってきた。私が初めて見た死体は川の中だった。うつ伏せの人、仰向けの人、流れてくる人、顔の見える人にはできるだけ近づいて見た。みんな静かに眠っているようだった。
 川を過ぎると人の焼けた臭いが鼻をついた。炭のようにまっ黒に焦げた死体、まだ肌の色を残した死体はマネキンのようだった。防火用水の中で子どもを抱いたまま死んでいる母親もいた。ところどころ残っていたコンクリート塀には、人の形をした焦げ茶色のしみがついていた。そこで人間がじりじりと焼かれたのだ。
 「なんてこった、なんてこった」。叔父はうめくようにつぶやいた。それでも私は、焼跡から去る人や顔が分かる焼死体をできるだけ見て歩いた。
 行けば行くほど事態の深刻さを知った。黒く焼かれた死体は、ひと山、ふた山といった具合に群をなしていた。
 砂町の手前で叔父は両手を私の肩に乗せ、しゃがみこんで言った。「いいか、武坊。あまり長くなると伯父さんや伯母さんが心配する。一度帰ろう」。私は迷いながら叔父の顔を見た。まぶたの奥には充血して真っ赤になった眼があった。私はうなずいた。
 私たちは引き返したところで、初めて休んだ。叔父はポケットの中から乾パンを出してくれた。朝も食べていなかったので、とてもうまかった。手の平に付いたくずもきれいになめた。
 私は目の前をぼんやりと眺めた。焼けた東京は小さく見えた。帰り道、叔父は危ない場所は私を背負ってくれた。焦げた髪、ススだらけの顔、腫れたまぶたで私を背負って歩く姿は、すさまじい形相であったろう。私は叔父の優しさと強さを、決して忘れない。
 道灌山に戻った時、板橋から父の従兄弟が来ていた。従兄弟は砂町まで行ったが、父も母の姿も見ることができず、近所の人に聞いても分からないということだった。きっと父と母は生きている。私は自分に言い聞かせながら、激しい不安を感じた。
 寝るところもない私たちは、焼跡に板切れを立てて伝言板とし、それぞれ散ることになった。伯父と伯母は厚木の知人を訪ね、叔父は茨城へ。私は板橋区の志村へ引き取られた。志村には1年ほどお世話になった。

ドブ川で見つかった遺体

 母の遺体が見つかったのは9月だった。8月15日の敗戦を境に、東京を焼け出された人々が戻って来た。焦土と化した街を片付けているうちに遺体が発見された。
 家から近いドブ川の中で、隣家の母娘と私の母と4人が固まって見つかった。ひとりっ子の私にとって、隣の姉妹は姉のような存在だったので、その知らせは二重のショックだった。
 ドブの一番下におばさん、その上に女学校1年の妹と3年の姉、一番上に母が重なって死んでいたという。名札はにじんで読めず服装で分かった。一番上にいた母の背中は焼けていた。
 私は母の遺体に会わせろとせがんだ。しかし、大人は首を横に振るだけだった。春と夏をドブ川の中で過ごした母の姿は、あまりにも変わり果てていたのだろう。母の遺体は、伯父や叔父の手で焼跡で荼毘に付された。
 私はいろいろな噂を耳にした。「あの人は、このように死んでいった」という類いのものである。私が一番印象に残ったのは、次の噂であった。
 赤ん坊を背負った母親が炎の中で袋小路に入り逃げ場を失った。どこにも逃げられないと悟った母親は、死にものぐるいで道路の土を素手で掘り、できた窪みに赤ん坊を寝かせ自分が上にかぶさった。母親は焼けて死んだ。子どもも死んだ。しかし、土の中で窒息した子どもはやけどを負っていなかった。そして、母親の指の爪はひとかけらも残っていなかった…。私は母親とはこういうものかと思った。母は私のことをどのように思いながら死んでいったのだろうと考え続けた。
 母の葬式は母の実家の葛飾区四つ木で行われた。「武ちゃん、お前のお母さんだよ」。伯母は私に骨壷を持たせた。私はずっしりした骨壺を両手でしっかりと持った。張り詰めた思いが切れたように涙が次から次とあふれた。母の死を知らされた時も泣かなかったが、この日は涙が止まらなかった。
 母の形見として残ったのは、ドブの中で着ていた着物の切れ端だけ。腐った異様な臭いがしたが、私にとっては懐かしさがこもったものだった。
 父は行方不明のまま死体も見つからなかった。あの時は何万人もの身元不明の死体が、大きな穴に投げ込まれ埋められた。父もその中の一人であったのだろう。
 両親を失い兄弟もなく、孤児になった私には厳しい道が待ち受けていた。板橋で世話になった後、叔父のもとに預けられたが、叔母との折り合いが悪く家に入れないこともあった。
 私は強がって生きた。人前では涙を見せぬ子になった。たくさんのことが悪夢のように通り過ぎた。私は寂しかったことを心の糧として前を向いて歩きたい。私は平和を願っている。そして、何よりも人間が大切にされる社会を願っている。
 一夜にして下町を炎の海に変え、10万人余の命を奪った東京大空襲。昭和20年3月10日は、私の生きる原点となった。
(田中さんの手記を編集部で加筆、修正しました)


子や孫に伝えたいこと

引き揚げ

才藤抱一さん(79歳)
(富山医療生協新庄北支部長)

才藤抱一(さいとう・ほういち) 富山市在住。7歳の時に芳和会(熊本県民医連)の創設者、故・平田宗男医師の診察を受けた。富山医療生協には1962年の創立時に加入し副理事長などを歴任。B型肝炎の患者として患者会も結成した。新庄北自治振興会常任理事、新庄北環境保健衛生協議会会長など自治会活動でも活躍。現在は全日本民医連共同組織活動交流全国連絡会連絡委員、富山医療生協新庄北支部長

才藤抱一(さいとう・ほういち)
富山市在住。7歳の時に芳和会(熊本県民医連)の創設者、故・平田宗男医師の診察を受けた。富山医療生協には1962年の創立時に加入し副理事長などを歴任。B型肝炎の患者として患者会も結成した。新庄北自治振興会常任理事、新庄北環境保健衛生協議会会長など自治会活動でも活躍。現在は全日本民医連共同組織活動交流全国連絡会連絡委員、富山医療生協新庄北支部長

 私と家族は終戦当時、韓国南部の慶尚北道に住んでいた。小学校教師だった父の6カ所目の赴任先で、私は4歳10カ月。両親と兄、妹の5人家族だった。
 1945年8月17日、山の中腹の神社が地元住民に焼き打ちされたことで、日本の敗戦が決定的なことを知った。神社を焼き打ちした一団は小学校に押し寄せ、学校と私たちが住んでいた日本人官舎の略奪が始まった。
 私たち家族は官舎から田んぼを越えて裏山に隠れた。父は「彼らが山裾を曲がってきたら、お前たちを殺して自分も死ぬ」と、手に日本刀を握り締めていた。
 彼らは山裾を曲がらなかった。太陽が西に傾き出したころ「才藤先生、奥さん」と呼びかける地元小学校の児童の声がした。「万一、子どもたちにだまされて死ぬようなことがあっても、それは教師としての本望だ」という父の決断で、山を下りた。子どもたちの声に偽りはなかった。
 日本人の警察官家族とともに逃げる途中、地元住民の一団に囲まれた。彼らは「警察官を殺す」「同胞は労務者として連行され、娘たちも耐えがたい屈辱を受けた。先生はいい人だし、関係ないから警察官だけ置いていけ」と言った。彼らが持つ山刀には西日がきらめいていた。
 父はこう言った。「気持ちは良く分かる。しかし君たちがここで日本人を殺せば、日本にいる君たちの同胞が報復を受ける。私は日本人だから日本人を見殺しにできない。私の家族もここで殺してくれ」。やがて彼らは立ち去り、私は一度目の死地を逃れることができた。
 ようやくたどり着いた避難所は釜山の小学校だった。父は金泉で教師をしていた叔母と同居の祖母を探し、無事に二人を連れて帰ってきた。また、韓国人の教師が略奪された家財道具のいくつかを取り戻し、釜山の収容所に届けてくれた。
 正規の引き揚げ船に大きな荷物は持ち込めなかった。父と私は家財道具を日本に持ち帰るため、数人の仲間とともにヤミ船をチャーターして玄界灘を渡ることにした。一方、祖母と母、兄、妹、叔母たちは、引き揚げ船での帰国の順番を待つことになった。

漂流したヤミ船

 父と私は家族と別れ、釜山の港からヤミ船に乗った。海に出てしばらくすると台風に遭遇、エンジンが故障し幾日も漂流した。食べるものといえば、水と乾パン、それに子どもたちは金平糖1個。命からがら漂着したのは島根県の江津市付近だった。物々交換で得た塩味だけのおにぎりのおいしかったこと。生涯、忘れることはない。
 父の履歴書によれば日本上陸は10月20日。釜山を出港してからかなりの日数を漂流していたことになる。こうして、私は二度目の死地も乗り越えることができた。
 島根から父の故郷の熊本県上村(現・あさぎり町)へは列車で帰った。関門トンネルを通過する列車から、走馬灯のようにところどころに点灯していた明かりは今でも忘れられない。やっと九州についた、父祖の地を踏めると親子ともに安堵した。高校3年の修学旅行で再び関門トンネルを通過した時は、思い出して涙がこぼれた。
 引き揚げ船で帰国した母たちは、私たちより前に熊本に帰っていた。ところが、先に帰国しているはずの父と私が戻って来ない。半ばあきらめかけたころ、「才藤さんたちが免田駅(現・あさぎり駅)に着いた。こちらに向かっている」との連絡で家族全員が道路に飛び出した。
 そこへ夕日を浴びてゆっくり歩いてくる親子が見えた。日焼けした2人、やせて目ばかりが大きくなった私は母の懐に飛び込んだ。
 終戦当時、朝鮮半島南部には日本の民間人が約40万人もいた。中国東北部(旧満州)や台湾、南樺太を合わせれば300万人にのぼり、引き揚げの途中で亡くなったり、帰国できなかった人も多い。
 私たち家族は幸いなことに、全員無事帰国することができた。しかし、私たち兄弟と同年齢のいとこ姉妹は、満州からボロをまとって帰国。戦後も悲惨な生活を送り、若くして還らぬ人になった。また、先に帰国したはずの妻と子どもが行方不明の親戚もいた。

レッドパージされた父

 帰国後、小学校に復職した父は2度と戦争を鼓舞するような教育をしてはいけないと民主教育に取り組み、1949年に公職追放(レッドパージ)された。
 父の遺志を継いで兄が、父と兄の遺志を継いで私が、自分の子どもや孫、そして全ての子どもたちに、私が経験したことを味わわせたくないとの思いで平和運動に参加している。
 NHKで2009年、「遥かなる絆」というドラマが放映された。もし、父の赴任地が韓国ではなく満州だったら、主人公と同じ運命をたどったかもしれない。
 私は長年、医療生協で理事をしてきたが、憲法25条で保障された生存権は、平和な社会でこそ実現できると思う。医療や福祉・社会保障制度が年々改悪され、その一方で憲法9条は形骸化が続く。
 私にとって憲法9条と25条は車の両輪だ。2度死にかけた私は憲法を守り、子や孫、そして全ての子どもたちが平和な社会で暮らしていけるよう命のある限り頑張っていきたい。
(才藤さんの手記を編集部で加筆、修正しました)

いつでも元気 2020.8 No.345

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