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2020年8月31日

椎名誠の地球紀行 
夢のようなぼくの田舎 福島

椎名誠

著者撮影

著者撮影

 東京生まれのぼくにとって、子どもの頃からうらやましくてならないことがあった。それは夏休みになると、多くの友達が「田舎に遊びに行ってきた」と言っている“田舎”の存在だった。
 ぼくは小学生のときに千葉県の幕張に越してきた。今は幕張メッセなどといって近代都市みたいになっているけれど、ぼくが小学生の頃は遠浅の海岸と田畑の広がるのどかな田舎だった。けれど、それでも他人だらけの田舎だった。何より、年に数回帰る田舎のじいちゃんとばあちゃんがいない。
 そういう思いがずっとあったからだろうか、四十代ぐらいの夏、モノカキという仕事の延長で五、六人の仲間と福島県の奥会津に行った。何をどうする、という目的もなかったのだが、予定していた一週間ぐらいのスケジュールが急に空いてしまったのだ。
 場所は誰かがなんとなく知っている会津の山の中の温泉郷だった。温泉郷といってもざわついた気配もなく、逆にひなびたところもなく、一言でいったら緑の山々と渓流がある理想郷のような背景の中にあった。
 渓流のそばに三階建ての温泉宿があり、客はチラホラだった。派手に宣伝もしていない、商魂ゼロみたいにおおらかな温泉宿の人々と出会った。その宿にも質素ながら立派な湯量の多い温泉があった。ところが宿の人は外部の無料温泉を勧める。それは二つの源泉からゴンゴンとあふれ出る、かけ流しの王者のような人生で出会った最高の温泉だった。
 最初に泊まった晩から、宿の人に地元のうまい酒など飲ませてもらいすっかり意気投合。出会った地元の人は誰もが気持ちのいい、楽しい人ばかり。ほんの一瞬、タヌキかキツネにバカされているのか、と思ったほどである。
 ある日、宿に戻ると地元からいろいろな人が来ていた。東京からのお客さんだというので、わざわざあいさつに来てくれたのだ。みんな素朴ないい人たちばかり。「今の時代にこんなに心根の優しい人がいるのか!」と感動したものだ。
 遠慮がちに顔を出した老夫婦は、宿の隣に住んでいるという。東京から作家が見えたというので(何も言わなかったのに、いつの間にかそんな話がモレていた)、「自分のところの孫たちの書いた習字を見てください」と言うのである。ぼくは字なんて分からない。でも失礼なので「味があってかわいい字です」なんて言ってごまかした。
 翌日、集まってきた少年少女団と近くの原っぱ(本当の原っぱ)で野球大会をやった。その里山とは以来、二十年の付き合いで、ぼくのちゃんとした田舎になっている。


椎名誠(しいな・まこと)
1944年、東京都生まれ。作家。主な作品に『犬の系譜』(講談社)『岳物語』『アド・バード』(ともに集英社)『中国の鳥人』(新潮社)『黄金時代』(文藝春秋)など。最新刊は『この道をどこまでも行くんだ』『毎朝ちがう風景があった』(ともに新日本出版社)。モンゴルやパタゴニア、シベリアなどへの探検、冒険ものも著す。趣味は焚き火キャンプ、どこか遠くへ行くこと。
椎名誠 旅する文学館
http://www.shiina-tabi-bungakukan.com

いつでも元気 2020.9 No.346

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