MIN-IRENトピックス

2020年8月31日

戦後75年 
いま、語らねば

 読者の戦争体験を紹介します

ぼくの8月15日

敗戦の日

戸田輝夫さん(84歳)
(札幌北・石狩健康友の会)

戸田輝夫(とだ・てるお) 北海道札幌市在住。1936年生まれ。58年から96年まで教師として深川西高校など道内の高校に勤務。退職後は北海道教育大学等の非常勤講師を2011年まで務めるかたわら、札幌北区社保協代表(19年退任)。現在、北海道高齢者等九条の会幹事、勤医協札幌北社員支部委員、札幌北・石狩健康友の会委員など。著書に『不登校のわが子と歩む親たちの記録』『蟹工船 消された文字―多喜二の創作意図と検閲のたくらみー』(高文研)など

戸田輝夫(とだ・てるお)
北海道札幌市在住。1936年生まれ。58年から96年まで教師として深川西高校など道内の高校に勤務。退職後は北海道教育大学等の非常勤講師を2011年まで務めるかたわら、札幌北区社保協代表(19年退任)。現在、北海道高齢者等九条の会幹事、勤医協札幌北社員支部委員、札幌北・石狩健康友の会委員など。著書に『不登校のわが子と歩む親たちの記録』『蟹工船 消された文字―多喜二の創作意図と検閲のたくらみー』(高文研)など

 1945年8月15日。ぼくが敗戦の日を迎えたのは、小学校4年生の時だった。その日は朝からみごとに晴れわたり、高い空がまぶしく輝いていた。
 朝のラジオで、お昼に天皇陛下から重大なお言葉が初めて語られる旨の予告があったせいか、午前の町内には人影もなく、妙にはりつめた静かなたたずまいだった。
 正午の玉音放送※1の直前に「起立」とアナウンスされ、父と母はラジオに向かって正座し、両手を合わせるようにして放送を待っていた。東京の大空襲で焼け出され、挺身隊※2から帰ってきていた姉と一緒に、ぼくはただそのまま座っていた。
 「君が代」の楽奏が流れ、玉音放送が始まった。録音盤の再生のせいか雑音交じりで聞きづらく、そのうえ普段は聞くことのない漢語ばかりの難しい文語体の内容で、初めて耳にする天皇の声はとつとつとしていて、どこか悲しげだった。最後の方は語り諭すような響きを持って伝わってきた。

天皇は神様じゃなかった

 途中、「堪へ難キヲ堪ヘ忍ビ難キヲ忍ビ」のところだけは、どうしたわけか突然日常の用語で話されたので、日本が戦争に負けたことを理解した。玉音放送の後、アナウンサーから解説入りのニュースが語られ、40分ぐらいでこの日の「重大ナルニュース」は終わった。
 玉音放送のあと、父が話し始めた。
 「玉音は少し難しかったかもしれないな。連日の焼夷弾爆撃の上、連合軍※3に『残虐ナル爆弾』(原爆のこと)を使われて、もうこれ以上の犠牲を出すことはできない。残念だけれども戦争を続けることは止め、何の条件も付けないで降伏することにしたんだ※4
 父は続けた。「天皇陛下もおっしゃられていたように、無茶な行動や抵抗などはしないで。悔しいだろうけれども敗戦を受け入れ、これからどう生きていくか、一人ひとり考えていかなくてはならない。ここが大事なところなんだよ」
 そう言う父の目は心もち潤んでいた。家長としての話を終えて、込みあげてくる父なりの思いをこらえていたのであろう。
 ぼくは「何だ……天皇は神様じゃなかったんだ」と、胸の奥で呟いていた。面食らっていたのだ。母と姉は「さあっ……」と言って、昼餉の支度に立ち上がった。

吹かなかった「神風」

 昼下がり、それぞれに玉音放送を聞いた町内の遊び友達が広場に集まった。ぼくは小学校2年生の途中、旭川から北海道西部の留萌に引っ越してきた。住んでいたのは日本人造石油株式会社の職員住宅街で、遊び友達はこの職員の子どもたちなので絆の強い集団だった。戦争が終わったことを互いに確かめ、見通しのない不安を抱きながらも、一入の喜びを噛み締め合ったことを鮮明に覚えている。
 「おい、戦争終わったぞ! 日本は負けたんだ。とうとう神風は吹かなかったなあ」「神風か……そんな風は初めから吹くはずもないんだ」先輩の6年生はそう言った。「日本はもともと『神の国』じゃなかったんだから、神風なんか吹きっこないんだよ。おれたちをだまくらかすための大本営※5の謀だったんだ」と、下級生のぼくたちに語るのだった。
 当時小学校には、「修身」と呼ばれる道徳の授業があった。その中で月に1回ほど、鎌倉時代の元寇を描いた「神風」という活動写真(8ミリの無声映画)を観る時間があった。
 「神風」は、元(モンゴル)が二度にわたり日本に攻めてきたが、神風が吹き元の大軍に勝ったという話だ。活弁と呼ばれる弁士が、アコーディオンやハーモニカで効果音を付けながら、場面の説明やセリフを語る。神風が元の大軍から日本を護ったように、今回も神様が風を吹かせて日本を護るのだ。だから日本は決して戦争には負けない、と教えられていた。

冷静だった少年少女たち

 学校ではまた、敵国である連合軍を「鬼畜米英」と呼び、彼らを鬼や畜生のように見立てて、敵愾心を膨らませる教育をしていた。
 食べ物は軍隊優先。配給でお米が配られることはなく、澱粉を取った後の芋かすや高粱※6ばかり。教育も普段の生活も、戦争に勝つために国民を奮い立たせるためのものだった。
 しかし、ぼくやまわりの友達はそんな教えを盲目的に信じていたわけではなく、意外と冷静に捉えていた。8月15日を機に、戦争中は口にすることができなかった思いが次々と語られたことを覚えている。
 「学校で『神風』の活動写真なんか見せられて、日本は“神州不滅”の神様に護られた『神の国』だなんて、すっかり騙されていたんだよ」「うん、おれも観たけど、何か嘘っぽくなかったかい? 『神の国』がすぐに信じられなくってね……。元寇の神風も、本当に吹いたのかな?※7
 「日本は神様が護る瑞穂の国なんでしょう? それならどうして、こんなに食べ物が足りないの?」と話す友達もいた。
 日本が負けたことで、連合軍かソ連軍が乗り込んでくるのではないかという心配もした。樺太から引き揚げてきた人から「ソ連の兵士は背が高く大柄で、大方は無学で文盲」と聞いていたので、略奪など乱暴な行為が行われるのではないかと心配し、不安になるのも不思議ではなかった。

新たな誕生の日

 ぼくは敗戦のこのときから、新聞やラジオの報じること、御上や教師、大人たちの語る言葉は眉に唾して読み、聞くようになった。そして自分の五感で確かめ、その事実と事の是非を考え、自分の頭で判断するまでは鵜呑みにしなくなった。この習性は今も続いている。
 あの日の教訓は正当であり、9歳のときのことながら、体験したことの真実の重みは、他の何ものにも代え難い貴重な宝であることを明示してくれている。
 1945年8月15日は、そういうかけがえのない実践的教訓を心の内奥深くに刻んだ、ぼくのあらたな誕生の日であった。(戸田さんの手記を編集部で加筆、修正しました)


 注釈
※1天皇みずから降伏の決定を伝えた正午のラジオ放送
※2戦争による労働力不足を補うため、国からの指示で尋常高等小学校(1941年から国民学校高等科)以上の女性が集められた部隊。勤労労働に従事した
※3第二次世界大戦で日本と対戦したアメリカ、イギリス、ソ連、オーストラリアなど
※4ポツダム宣言受諾の「聖断」は、国のため、国民の生命を護るために天皇みずからがそう決断されたのだと、ぼくの父同様に思われている方が多いに違いない。しかし、「終戦の詔書」を読んでみると、聖断は国体を護持することと、“三種の神器”を護る皇室の護持がもっぱらの関心事で、臣民の生命は関心の外だった
※5天皇の下に置かれていた陸・海軍を指揮した最高機関
※6病害虫に強く、やせた土地でも丈夫に育つイネ科の植物。米の代用食として配給された
※7服部英雄『蒙古襲来と神風 中世の対外戦争の真実』(「中公新書」17年)参照のこと

いつでも元気 2020.9 No.346

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