いつでも元気

2007年2月1日

南京を訪れて 歴史の事実に向き合わずして平和はこない

前全日本民医連事務局長・前田武彦

 

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南京大虐殺の生存者 常さんの証言を聞く

 昨年の九月七日から四日間、全日本民医連の「中国(上海~南京)平和ツアー」に参 加しました。きっかけは靖国神社にある軍事博物館「遊就館」を見学し、侵略戦争を「自衛の戦争」だったと美化している事実を目の当たりにしたこと。またド キュメンタリー映画「蟻の兵隊」を見て、侵略戦争とは何だったのか、私なりに掘り下げたかったからです。そのために南京へいこうと考えたのです。

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南京事件当時は長江に橋はなく、逃げようとした人々がとびこんだ

中国の広大な大地を前に

 南京は上海から長江にそって三〇〇キロ内陸にあります。上海から南京へ向かう途中、私はバスから農家の窓明かりを眺めながら、一睡もできませんでした。 バスが走る高速道路は「首都を落とせ」と日本陸軍の上海派遣軍と第一〇軍がわれ先にと競い合った「南京への道」でした。しかし見渡す限り山一つ見えない広 大な大地です。私は「この広大な中国を本当に支配できると考えたのだろうか」と思案しつづけていました。
 南京は長江の両岸にまたがり、孫文をまつった中山陵や、玄武湖、城壁や通り沿いに梧桐が茂った風光明美な古都です。この街を一九三七年八月から日本軍が 爆撃。海軍航空隊の爆撃機が長崎の大村基地を発進し、「南京渡洋爆撃」と称して空襲を繰り返しました。つづいて陸軍が進軍し、一二月から翌年の一月にかけ て三〇万人ともいわれる人びとを虐殺し、略奪・暴行・強姦などをおこなったのです。これが南京大虐殺(南京事件)です。

弟を抱いた母を銃剣で刺す
家族を6人も殺された

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長江岸に並ぶ死体(村瀬守保『新版 私の従軍中国戦線』日本機関紙出版センター)

戦争は人間を狂わせる

 残念ながら侵華日軍南京大屠殺遭難同胞記念館(南京大虐殺記念館)は展示拡張工事のため入れませんでした。しかし江蘇州人民政府の計らいで、南京事件の生存者の一人、常志強さんの証言を聞くことができました。
 七八歳の常さんは当時九歳。家族一〇人のうち六人が一日で殺されました。南京事件当時、お金持ちはすでに南京から避難していたこと、一般市民は、南京城 内にドイツ人やアメリカ人が中心となってつくった国際安全区(難民区)に逃げ込むしかなかったことを話しました。
 常さん一家は、安全区に向かう途中で日本軍に襲われました。銃剣によって母と四人の弟を殺され、父も銃弾に倒れました。乳飲み子だった末の弟を抱いた母 を、何度も突き刺す日本兵。「お母さんを刺さないで」と抵抗する姉や弟たちも、容赦なく突き刺されました。一二歳の姉は、五カ所も刺された上、強姦された ことなどを悲し涙、悔し涙を流しながら語りました。…犬畜生の仕業、修羅の世界です。戦争は人間を狂わせるのです。

憎しみが友好の中で

 上海派遣軍は、多くが現役を終えたのに軍の必要で召集された予備役兵で編成され、軍紀頽廃を指摘されていました。その上、上海から南京へ戦線がなし崩しに拡大され、食糧は現地調達・略奪があたり前で、南京大虐殺を生み出す土壌があったと軍幹部さえ認めています。
 戦後、常さんは「思い出すと悲しみでいっぱいになる」と証言しませんでしたが、一九九七年ごろ「南京大虐殺はねつ造だ」などという侵略戦争美化の動きが 日本で盛んになったことを知り、「憎しみ」から証言を語り継ごうと決意しました。
 しかし日本の被爆者などと交流する中で、「日本にも戦争に反対し、平和を求める人がいることがわかってきました」と常さん。「歴史を若い人に学んでほし い。歴史を知ることは将来の平和を築くために大事だ」と訴えたことが、強く印象に残っています。

命を投げ出した若者は

 総理大臣になる直前まで靖国神社を参拝し、いま「美しい国づくり」という安倍首相。石原東京都知事は南京事件を否定するばかりか、魚雷「回天」などの特攻隊で尊い命をなくした若者を「美しい生き方」と賞賛してみせます。
 一方で、憲法改悪や教育基本法改悪の動きに「軍靴の音が聞こえてくるようだ」と危惧する人も増えています。映画「紙屋悦子の青春」「出口のない海」は、 「お国のために」と命を投げ出した若者たちをありのままに描くことで、痛烈な反戦のメッセージを送りました。今日の日本において、過去の歴史の事実に真摯 に向き合うことがいかに大切か痛感させられた中国「平和ツアー」でした。

いつでも元気 2007.2 No.184

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