いつでも元気

2007年3月1日

ノーモアミナマタ国賠訴訟 自分が水俣病だったなんて… 公式確認から50年、新たに1159人が提訴

国は正確な情報を伝えず、被害を広げてきた

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榎本さん(左端)宅で。右に柏木さん、折木さん。後に寝ているのは榎本さんの夫でやはり原告の馨さん

  昨年五月で、公式確認から五〇年が過ぎた水俣病。一九九六年の「解決」で、ほぼ一万人の被害者に救済措置がとられてからでも一〇年がたちます。その水俣病 で、いままた新たに、一〇〇〇人を超える人たちが裁判(ノーモア・ミナマタ国家賠償訴訟)に立ちあがりました。なぜいま…。そこには、国とチッソの驚くべ き無責任ぶりが浮かび上がってきます。

足がつる…これが水俣病!?

 水俣市に隣接する鹿児島県出水市の櫓木地区は、チッソ工場から一四礰ほど南に離れた漁村です。ここで暮らす榎本よしえさん(73)、柏木か子さん (72)、折木芳子さん(68)も、一年ほど前にノーモア・ミナマタ訴訟の原告に加わりました。
 きっかけは、「足がカラス曲がりする(足がつる)」というお年寄りを折木さんが水俣協立病院に連れていったこと。「この症状に効く薬を出してもらいま しょうね」という看護師の言葉に、折木さんは思わず「私にもください」と訴えました。折木さん自身、若いころから同じような症状で苦しんできたのです。
 「診察を受けると、水俣病だといわれました。でも、これが水俣病の症状だなんて、誰も教えてくれなかったんです」
 水俣病の問題が大きくなった一九七〇年代初頭、国は「手足の感覚障害があれば水俣病」と認める認定基準を出しました。ところが裁判で被害者側が勝訴し、 多数の被害者が救済を求めるようになると、七七年には「いくつかの症状の組み合わせがなければ水俣病と認めない」という厳しい基準に変更。現在にいたるま で、一貫して変えようとしていません。

魚が危険ともいわれなかった

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美しいこの不知火海で(写真・松田寿生)

 水俣病の病像は、水俣協立病院で一万人近い患者を診察してきた藤野糺名誉院長ら が、「有機水銀に汚染された魚介類を多食し、感覚障害など一症状があれば水俣病」と明確に規定し、八五年、福岡高裁判決でこれが確定しました。それでも国 は認定基準を変えず、被害者救済を拒んできたのです。
 「手が震えて箸を落とすし、舌もしびれて味がよくわからない」という榎本さんも、「ふくらはぎがしびれて曲げると立ちあがれない」という柏木さんも、折 木さんの話を聞いて初めて協立病院で診察を受け、水俣病と診断されました。
 「このあたりの海は、ナマコでもアワビでも何でもようけとれる。昔は水銀でフラフラになったタコやタチウオもよくとって食べたけど、蕫危険だから食べないで﨟なんて誰もいわなかったですよ」
 チッソの排水で魚介類が汚染され、水俣病が起きたこと。水俣病の症状は、歩くことも話すこともできなくなるような劇症だけではなく、感覚障害や運動障 害、視野狭窄などもあること。そうした基礎的な情報も、ほとんど地域住民には届いていなかったのです。

差別・情報不足で検診さえ

 現在、一一五九人にのぼっているノーモア・ミナマタ訴訟原告の大半を診察している水俣協立病院の高岡滋総院長は、昨年一一月に「水俣病診断総論」をまと めて裁判所に提出しました。この中で高岡医師は水俣病を、「魚介類に含まれているメチル水銀により、個人レベルで健康障害を受けていると診断されるもの」 と定義しています。
 「水俣病問題に欠けていたのは、初期の汚染の遮断、被害の調査、被害者への補償、住民への啓蒙、教訓を生かすこと。このすべてがないがしろにされた。国 はなんとか問題を沈静化させようとしてきただけ。何が水俣病かを医学的に明らかにしようという発想は、初めから行政にはなかったのだと思います」
 昨年八月にアメリカのマジソンで開かれた第八回水銀国際会議で、高岡医師はある調査結果を報告しました。一昨年の三月から四月までに、水俣協立病院か協 立クリニックで高岡医師らが診察した患者のうち、許可を得た五一三人にアンケートをした結果(表)です。
 それによると、「水俣病検診をこれまで受けなかった理由」では、世間体や家族のことを憂慮した「被差別意識」が最も多く四三・三%、次いで「情報の欠 如・不足」が一九・九%となっています。この調査の「考察」のなかで、高岡医師は次のように述べています。
 「これらの結果は、大部分の被検者は以前から健康問題があったが、水俣病をめぐる差別や水俣病に関する情報の欠如によって、医師の検診を受けることさえ できなかったことを示している。…また、水俣病に関する情報源のほとんどは、行政ではなく、個人的なコミュニケーション(会話や相談)やマスメディアから のものである。これは、水俣病についての情報が行政からは、今までほとんどもたらされてこなかったことを反映している」

ノーモア・ミナマタ国賠訴訟

有機水銀に汚染された魚介類を多食し、感覚障害など1症状があれば水俣病

─国は高裁が確定した病像を認めよ

悲惨だが貴重な経験を未来に生かすためにも

不知火患者会を結成して

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チッソ工場を背に、松本さん(左)と大石さん。水俣協立病院屋上で

 新たに立ちあがった不知火患者会の会長で、原告団長の大石利生さんは、一五歳からチッソで働いてきました。水俣病の問題が顕在化したころ、たまたま病院で劇症患者の姿を目にしたことで、「水俣病の症状はああいうもの」と思いこんでしまったのだと語ります。
 「若いころから視野の一部が欠けたり、体のだるさなどはありました。けど、それが水俣病だなどと、聞いたこともなかった。一〇年ほど前、手に針を刺され ても痛く感じないので、高岡先生が蕫あなたは水俣病ですよ﨟とゆうたときも、私は蕫いや違う。私は水俣病ではない﨟と食ってかかったほどでした」
 不知火患者会世話人の松本義徳さんも、頭がふらついたりひざがガクガクする症状があり、倒れて動けなくなった経験もあります。
 「それらもすべて、高血圧のせいだと思っていました。私は四人の姉が水俣病と認定されているし、生活と健康を守る会の事務局で、患者さんの世話もしてき た。しかし、二年前に高岡先生に水俣病だと診断されるまで、常に水俣病は蕫他人事﨟だったんです。そういう人は、まだまだたくさんおりますよ」
 二〇〇四年、関西訴訟最高裁判決で、国や県の責任が明確に認められました。翌年、不知火患者会を結成。みんなで水俣病について勉強して、初めて、本当の 病像を知ることになったと大石さんも松本さんも声をそろえます。

沿岸住民の健康調査を急げ

 不知火患者会は当初、不知火海沿岸住民の健康調査と、九六年「解決」なみの補償(一人当たり二六〇万円)を行政に要求しました。しかし国は、まったく動 こうとしませんでした。患者会は「司法の場での救済実現」を求めて裁判を起こすことになったのです。
 園田昭人弁護団長は語ります。
 「最高裁判決のあと、水俣病認定審査会の委員をしていた医師がすべて再任を拒否しました。自分たちが国の認定基準にそって患者を棄却しても、裁判で水俣 病と認められれば責任が問われるからです。認定審査会が機能しなくなったにもかかわらず、国は基準はあいまいなまま新たな申請者に、新保健手帳で医療費だ け支給しています。私たちは、不知火海沿岸住民の健康調査と、この病像が水俣病なんだということを、国にきちんと認めさせたい。それが被害者の根本的な救 済に結びつくと考えています」
 水俣病公式確認五〇年の昨年、小池百合子環境大臣(当時)の私的懇談会において、委員たちは認定基準見直し問題に触れようとしました。しかし、環境省は 最後まで拒否し通しました。国はどこまでも、本質的な解決への第一歩すら踏み出そうとしていません。
 加害企業チッソは、損害賠償請求はすでに「時効」だと開き直り、患者団体の抗議も門前払いしています。

胎児への影響も明らかに

 水俣協立病院の板井八重子元院長は二〇年ほど前、膨大な数の女性患者たちに聞き取り調査を実施し、有機水銀が妊娠初期の胎芽期にも影響を与え、流産や死 産を引き起こす原因となったことを初めて明らかにしました。
 その後、国立水俣病総合研究センターの坂本峰至博士らの研究によって、有機水銀の微量汚染が胎児に与える影響や、その仕組みが明確にされてきました。し かし、「わが国の行政は有機水銀の胎児への影響調査や規制に関して、先進国に大きく遅れをとっているのが現実だ」と板井医師は語ります。
 「いま、欧米を始めとする各国は、魚介類など環境中の水銀が胎児に影響を与えることを懸念し、研究や規制を強めています。水俣病という、悲惨だけれども 貴重な経験をもつ私たちは、各国に先んじて行動しなければならないはずです。水俣病の真の解決は過去の被害者にとってばかりでなく、未来の子どもたちに とっても大きな意味をもっているのです」
文・矢吹紀人(ルポライター)
写真・五味明憲

いつでも元気 2007.3 No.185

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