民医連新聞

2021年7月20日

あれから10年 私の3.11 ⑩地元に帰り「最期の1人まで」支援を 東日本大震災復旧・復興支援みやぎ県民センター 遠州 尋美

 あの日、私は京都の自宅にいました。当時、大阪経済大学教授(地域政策)だった私は、内地留学中で春休み中でもあり、仙台の実家から母と弟を呼び寄せて、前日まで四国を巡り、当日の朝に仙台に送り返したばかりでした。大阪空港を昼前に飛びたった飛行機を見送って自宅に戻り、遅めの昼食をとりながらテレビをつけたその時、スマホが「地震が来ます!」と大声で叫び出しました。緊急地震速報を生まれて初めて聞いた瞬間でした。
 それから20時間、押し寄せる津波のライブ映像に釘付けにされて、一睡もしないまま翌朝を迎えました。一度だけ繋がった電話で、母と弟の無事は確認しましたが、その後全く連絡が途絶えました。どうしているか、気持ちは焦るものの手の打ちようがありません。5日後ようやく連絡がつきました。灯油がなくて寒いという。夜行バスが開通したら、あらためて京都に呼び寄せることにしました。
 内地留学先の教授の許しを得て、残りの半年は仙台で過ごすことにしました。連休前に母と弟とともに私も仙台に戻りました。6畳一間のアパートを借りて、黒柴犬1匹と私の仙台ぐらしが始まりました。すぐにでも、復興支援の活動ができないかと学生時代の知り合いを訪ね歩きましたが、みな被災者で復興支援活動どころではありません。このまま何もできないのかと、半ば諦めかけた時、耳にしたのが東日本大震災復旧・復興支援みやぎ県民センターの立ち上げでした。仙台国際センターで開催された結成総会に駆けつけて、早速、事務局に加わることにしました。センター事務所には、さまざまな被災者の情報が飛び込んできました。当時、最も深刻だったのは、避難所から排除されて車中避難を続ける人たちの救助でした。弁護士や地元議員と連絡を取り合い、対応を練る緊迫したやりとりが、昨日のように思い出されます。
 2009年の伴侶の早すぎる死と3.11は、私の人生を根本的に変えました。2009年までは、退職後は、長野県安曇野に転居してアルプスの山並みを見ながら過ごすことを夢見ていました。しかし、3.11以後は、退職後に東北に帰ることにためらいはなくなりました。退職半年後の2017年9月に仙台に戻り、すぐに県民センター事務局に復帰しました。それから4年、復興支援の日々が続きます。「最後の1人まで」、その時が来るまで。

(民医連新聞 第1741号 2021年7月19日)

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