いつでも元気

2007年4月1日

PEACE 東京大空襲 惨禍くり返すまじ

早乙女勝元(作家)

被害者の集団提訴とセンター増築へ

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賠償と謝罪を求めて原爆被害者とともに行進する東京大空襲の被害者と支援者(06年10月21日、浅草=東京新聞)

 「三月一〇日ってなんの日?」ときかれて、とっさに「東京大空襲」と答えられる人は、どのくらいいるのだろう。
 若い人の場合、ほんのわずかだと思われる。国や東京都による公立の記念館一つあるわけではなく、犠牲者や被害者にはなんの補償もなく、しかも今や「前世 紀」の出来事なのだから。しかし、ことしは昨年と異なる動きが重なって、マスコミからも注目されている。
 その一つは、犠牲者の遺族たちが、国に対し被害の賠償と謝罪を求めて、集団提訴に踏みきったこと。二つめは、民立民営の「東京大空襲・戦災資料セン ター」(江東区北砂一丁目)の増築が、文字通り草の根の募金で完成したこと。
 「今頃になって、なぜ?」の声には、私なりに答えよう。どちらも、過去の戦争における民衆の惨禍を語りつぎ、憲法改悪による「いつか来た道」は許さず、 世界のどこでも二度と戦争のないように…の熱い思いによるものである、と。
 そこで、少し過去に目を向けたい。

10万人の命を「其の他」と

 一九四五(昭和二〇)年は、日本が始めた戦争が破局を迎えた年で、米軍機B29による空襲は連日連夜にわたり、「定期便」と呼ばれるほど。東京を始めとして、全国の諸都市は次々と、無差別爆撃の火の雨にさらされていた。
 東京は一〇〇回余の空襲を受けたが、未曽有の惨禍となったのが、三月一〇日未明、下町地区への大空襲である。罹災者は一〇〇万人を超え、約一〇万人もの 生命が失われた。その大半は「銃後」の守りについていた女性や、子どもなど社会的な弱者だった。政府と軍部による大本営は、「…都内各所に火災を生じたる も、宮内省主馬寮は二時三五分、其の他は八時頃迄に鎮火せり」と発表した。
 一〇万人もの都民の生命は、「其の他」で片付けられたのである。

民間の犠牲者には救済なし

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東京大空襲・戦災資料センターで学ぶ子どもたち

 私の知り合いに、当時一九歳で家族四人を失った女性がいる。豊村美恵子さんは、その後さらに米軍機の機銃掃射で右腕を失い、戦後は筆舌につくせない苦難の日々を生きぬいた。
 「私たちを、戦争の被害者だと国は認めてくれなかった。切り捨てられたという負い目があったから、ずっと、こそこそ生きなきゃならなかったの。このままじゃ死ぬに死ねないのよ」
 八〇代に入った彼女は、今は自らの権利を主張する最後の機会と自覚してか、集団提訴の原告の一人となった。
 大本営発表の「其の他」は、そのまま戦後政治に引きつがれ、旧軍人軍属等恩給費は、現在の国家予算でも一兆円近い巨額なのに、民間の空襲犠牲者や傷害を 受けた人には、なんの救済措置もない。人権が尊重される時代に国際的にも異例なことで、民主主義の「民」欠落の、不条理ではないか。遺族の皆さんは憲法の もとでの平等を求めて、人間としての尊厳を守る一歩を、踏み出したのである。

センターは3月からリニューアル

 提訴の動きと同時進行で戦災資料センター増築募金が呼びかけられ、工事入りした。
 そもそもは石原都知事登場の九九年に、東京都による平和祈念館建設計画が、「凍結」されたことによる。民間募金によるセンター建設は、やむにやまれぬ決 断だった。五年前にオープンしたセンターは年を重ねるごとに来館者が増え、とくに全国からの修学旅行生徒たちへの対応が、困難になってきた。
 貴重な資料も、次々と寄せられてくる。「都内で唯一の語りつぎの場を、もっとしっかりと」の声に、容易なことではないと知りつつも、増築募金に踏みきった、というわけである。
 女優の吉永小百合さんや多くの人たちの激励と支援とによって、募金は目標に近く、増築工事は無事に終了、完成となった。おかげで面積は倍増し、特別展示 も含めて、三月一日からリニューアル開館にこぎつけた。新資料も集まり、若い研究者も育ってきたので、より充実した体制でのスタートである。
 といっても、どこからかの助成があるわけではないから、まだまだ「綱渡り」だ。維持会員をさらに増やしながら、集団提訴の裁判をも支えて、戦争・空襲の 惨禍をくり返すまじのバトンを、未来世代にきちんと手渡せたらと思う。それが明日の平和の力に結び合うと、信じて。

■筆者の近著に写真絵本「物語ベトナムに生きて」三部作があります。『枯葉剤とガーちゃん』『戦争孤児のダーちゃん』『ナパーム弾とキムちゃん』。発行は草の根出版会。

 

PEACE
原爆症認定集団訴訟 正念場の春へ

被爆者をこれ以上苦しめるな
三たび敗れた国に「救済を」の声高まる

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「いまこそ解決を!」のつどいで歌う名古屋からかけつけた原告や支援者たち。1月31日、日比谷公会堂(撮影・酒井猛)

 あの日広島の忘れられぬ声
 いまも体をむしばむ原爆の苦しみ
 病とたたかいつづけ
 あなたは生きてきた
 そしていま 命かけて 立ち上がる
 世界に伝えたい この真実を
 核兵器はいらない 願いよ届け

 舞台いっぱいにひろがって、原爆症認定集団訴訟のなかで生まれた歌「命をかけて」を響かせたのは、名古屋からかけつけた原告や支援者たちです(写真上)。
 「命をかけて」は単なる形容ではありません。ヒロシマ・ナガサキから六二年、高齢化して「私の病気は原爆のためだと認めてほしい」と裁判に立ち上がった 被爆者の原告は全国で二二九人。うち三一人がすでに亡くなっています。

26万被爆者みんなの勝利まで

 名古屋地裁は一月三一日、愛知の原告四人について判決。結果は二人勝訴、二人敗訴でした。
 原告の甲斐昭さん(80歳、甲状腺機能低下症が、判決で原爆症と認定された)は「四人で万歳したかったのに残念。でもこれからです。私たちだけのことで はない。全国二六万被爆者みんなの勝利までたたかう」と語りました。
 白内障が原爆症と認められなかった中村昭子さん(80)は、広島で被爆したとき一八歳。勤労挺身隊で動員中でした。終戦後重い急性症状に苦しみ、疫痢と 思われて漬け物小屋に押し込められました。嫁ぎ先でもまともに働けず、ついに婚家を追われて…苦難の人生を歩いた人です。判決直後、悔し涙をぬぐい、「憎 たらしい。高裁までいきます」ときっぱり。支援者に感動を与えました。
 「だって、第二次提訴の人が後につづいているでしょ。一致団結して乗り越えていかんとね」。控訴断念を申し入れにいった厚労省では、「あなたが(要請 を)蹴っても、私は最高裁までたたかいます」と涙で訴え。横にいた知的障害をもつ娘さんの「お母さんを泣かせないで。大嫌いだ」という言葉も、周囲の人の 胸を打ちました。

司法の場では「勝負あった」

 原爆症認定集団訴訟は、原爆による被害をどう見るかをめぐるたたかいです。国は、近距離で初期放射線を浴びた人にしか原爆放射線の影響はないといいま す。その機械的な基準で申請を却下されてきた人たち(後から爆心地付近に入った「入市」被爆者や遠距離被爆者)が立ち上がり、全国二高裁・一七地裁という 前例のない広がりをもつ裁判となりました。
 二〇〇三年四月に始まったこの裁判は、原告たちの切実な証言や、弁護団、科学者、医師らの証言によって、原爆被害の恐るべき実態を明らかにし、国側を圧 倒。大阪地裁判決(〇六年五月)、広島地裁判決(同八月)では計五〇人の原告全員が勝訴をかちとっています。
 名古屋判決も、国の基準について「形式的に適用したのでは、因果関係の判断が実態を反映せず、誤った結果を招来する危険がある」と批判。「入市」被爆 (甲斐さん)、脳梗塞など非がん疾病(小路妙子さん)という国が認めてこなかったものを原爆症と認定。国の基準は三たび、「使い物にならない」と断罪され たのです。
 司法の場では、「勝負あった」ともいえます。しかし、国は今回も控訴。司法を無視する態度をとりつづけています。

与野党5党が顔をそろえて

 これにたいし、政治の場で大きな変化が起きています。自民党内に若手国会議員による「原爆症認定を早期に実現する懇談会」(会長・河村建夫)が発足。一 月三一日の日比谷公会堂のつどいでは、与野党五党が顔をそろえ、「党派をこえて認定制度の抜本的改善へ、政治の役割を果たす」と表明しました。
 国会議員の「原爆症認定制度改善賛同署名」は一七〇人を超え、鳥取県八頭町議会が地方議会では初めて認定制度改善要求の意見書を採択しました。
 「山が動いた」「流れが変わった」という声も出て、被爆者は元気になっています。三月二〇日には仙台地裁判決、同二二日には東京地裁で三〇人の原告への 判決が出ます。「高齢化した被爆者をもうこれ以上苦しめるな、国はいますぐ解決を」という支援の輪も大きく広がっています。
 四月で満四年を迎える原爆症認定集団訴訟、正念場の春です。
 文・中西英治(ルポライター)

いつでも元気 2007.4 No.186

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