いつでも元気

2021年9月30日

あの日から10年

文・写真 豊田直巳(フォトジャーナリスト)

第10回 私、どこの誰なの?

 「ふるさとを返せ 津島原発訴訟」(本誌7月号参照)で、福島地方裁判所郡山支部は7月30日、原告勝訴の判決を下した。東京電力と国の原発事故の責任を認め、福島県浪江町津島地区の原告640人のうち634人に総額約10億4000万円を支払うよう命じた。しかし、津島の住民が最も求めていた原状回復の請求は退けられた。
 原告ではないが判決を複雑な思いで聞いていた一人が、避難先の兵庫県から駆けつけた菅野みずえさん(68歳)。岐阜県出身の菅野さんは長年、福祉労働者として大阪で暮らしていたが、原発事故の2年前に夫の明雄さんの実家を継ぐために津島に移住した。
 嘉永年間に建てたという築150年以上の古い母屋もリフォームして、花卉農家を始めようとした矢先の原発事故。一時避難所、仮設住宅と転々として避難を繰り返し、今は兵庫県三木市で家族と暮らす。既に津島で暮らした時間よりも避難生活の方が長くなってしまった。
 それでも、津島は「二度と取り戻せない生活の場所。私の暮らしのあった場所」と菅野さん。県内の仮設住宅にいた時は毎月、そして遠く関西に避難してからも、コロナ禍の前は年に数回は自宅の見回りとお墓参りに通い続けてきた。

除染で一変した風景

 判決の翌々日、菩提寺の長安寺から受け取った卒塔婆を津島のお墓に納めるというので、同行させてもらった。途中、川俣町から峠を越えて津島に入ると、車を停めた菅野さんは「以前はこの道を下りてくると、放射線量がすごく高かった。車内の線量は外よりずいぶん低いはずが、それでも17マイクロシーベルトとかありました。ここを通るのが怖かったですね」と振り返る。
 車を降りると、こんな話をした。「除染後も道路上には見えない放射性物質が残っている。放射性物質に色がついていたらいいなって思います。それなら、みんな怖がって『帰ろう』とか言わないですし、国も住民を『帰せ』と言えない気がする。国は見えないことをいいことに、このまま放っておこうとしているって思います」。
 菅野さんは国による除染にも複雑な思いをもっている。津島の家は2017年末に指定された「特定復興再生拠点区域」に含まれ、既に周辺では田畑の除染や建物解体が進められている。
 確かに10年の間に、林のように田んぼを覆い尽くしていた柳の木は除染で抜かれ、雑草が刈り取られた田畑は見た目はきれいになった。しかし、現場の作業員は被ばくを免れない。
 「誰かの大事な息子や夫が、誰かの大事なお父さんが、ここにやって来て除染してくれる。下請けの下請けのまた下請けみたいな。危険手当だって十分に支払われていないような人たちが、一所懸命除染をしてくれるんです」と複雑な表情を見せる。
 除染によって農民が丹精込めて土作りした田畑の表土は剥ぎ取られ、代わりによそから運んできた山砂が敷かれている。家屋解体後の更地が点々と残るが、そこに暮らしていた家族があったことすら想像できない風景が広がる。
 「私の家も、再来年には特定復興再生拠点区域として避難指示が解除される。周囲は汚染が酷い帰還困難区域のままなのに、家や国道の周辺を除染しただけで、『帰れ』って言われることになる。帰らなかったら『故郷を捨てた人』って言われる。私たちの暮らしを奪っておいて…。それでも戻って、ここで暮らさなきゃいけないんでしょうかね」。
 菅野さんは、こぼれ出した涙を拭いながらつぶやいた。「私、いま、どこの誰なんでしょうね。いえ、私だけじゃなくて。全国に散り散りバラバラになって『自分はどこの、誰なのさ』って思っている人が、たくさんいるんじゃないかしら」。

いつでも元気 2021.10 No.359

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