民医連新聞

2003年11月3日

「時代」をつなぎ未来へ 青年が探訪する民医連の歴史

“歩みはいつも組合員さんといっしょに”40年の歴史知るビデオをつくって-

 【富山=鈴木由佳通信員発】富山医療生協は今年で創立四〇周年を迎えました。一〇月一九日「虹の健康フェスティ バル」を一万人の参加で開催。四〇年の歴史を知るインタビュービデオも作成。元職員の関井邦子さんから富山医療生協の歩みをききました。(写真は新保光男 通信員)

…創立のことをきかせてください。

関井 一九四五年八月、富山市は大空襲を受けて焼け野原になりました。町や村には、その日その日を生きるのに精いっぱいで、病気になっても診てもらうことすらできない人たちがあふれていました。

 一方、「医療を受けられない人のため、医療活動をしよう」という動きが、戦争に反対し、民主化運動に加わって職 場を追放された人や、戦場から戻った医師や看護婦たちによって各地で起きていました。富山では村上虎雄さんが、戦争中に軍需産業に携わったことを悔やみ、 運動を始めました。村上さんは墓地を売ってお金を捻出し、働く人の診療所をつくろう、と呼びかけました。これに応えたのが看護婦の前橋志佐さんです。彼女 もまた、従軍看護婦として戦地に行き、戦後は昭和電工の診療所をレッドパージされた人でした。

 こうして一九五〇年、労農救援会「歯科診療所」が開設。その後、経営難などの困難も乗り越え、組合員の願いを集めて、一九六二年一二月、富山医療生活協同組合の創設へとつながってゆきます。

…先輩たちの献身的な努力で、医療生協が誕生したのですね。当時の医療活動はどんなものでしたか?

関井 「人減らし合理化」が、一九五五年代から続いていました。この労働強化は、働く人たちの健康を脅かしていました。「現代とよく似た部分がある」と思います。診療所はそういう人たちをささえ、様ざまな仕事をしたんです。

 国鉄富山操車場の労働者は、握り飯かインスタントラーメンといった食事をとりながら、一日三二キロも歩くという 過酷な労働を強いられていました。健康破壊は深刻でした。国鉄労組の富山操車場分会と富山診療所が合同調査をしたところ、胃腸障害や腰痛の労働者がなんと 八〇%を占めることがわかってきました。こうしたとりくみの中で、富山操車場の生協組合員が倍加しました。

 また、日本の四大公害病のひとつイタイイタイ病に対して、全国の民医連、医療生協の仲間にも呼びかけ、一二年にわたる裁判を支援、一九七一年に患者側の全面勝利となりました。

 黒部市では三ヶ日製錬所によるカドミウム汚染で稲が立ち枯れる被害が発生。地元では「県の健康調査は信用できな い、信頼できる医療機関に頼もう」と、富山診療所に依頼が入りました。組合員さんや医学生の協力で、小さな診療所が地域住民三八八人ぶんの健康調査を四日 間でやりきることができました。「この診療所はどうしてこんなに親切なの?」「田んぼを寄付するから、黒部にも医療生協の診療所が欲しい」という声が出る ほど、信頼が高まりました。

 富山市北部地区では、火力発電所による大気汚染が起きていました。ここでも地域の人たちと住民健診を行い、実態を明らかにしました。その結果、公害地域の指定、公害患者救済制度の発足を実現しました。公害認定患者の診断書の九割を富山診療所が書きました。

 老人福祉法にもとづく「老人健診」の運動は、一九六七年から始まりました。健診は診療所だけでなく、老人会や医 療生協班の協力で、個人宅、お寺、神社、公民館、公衆浴場などへも出張しました。受診率を高め、健診内容の充実を求めつつ、「老人医療費の無料化」をよび かけ、実現に大きな役割を果たしました。

…いま富山医療生協は、二万三〇〇〇世帯を超える組合員、一つの病院と二つの診療所、四つの介護事業所をもつ組織です。「組合員、患者・利用者の力なしでは、こんなに大きくならなかった」と聞いていますが。

関井 そうです。小さな小さな診療所から力を合わせて組織を成長させてきた四〇年でした。

 「いつでも安心して診てもらえる病院がほしい」「入院が必要なとき、医療生協で治療したい」「人生の最期は医療生協で終わりたい」、そんな声が病院建設運動にも発展しました。

 日雇い労働者のTさんは、毎日の日当から竹筒に少しずつお金を貯め出資金にあててくれました。病院設立後もその 協力は続きました。安い給料から積立出資に協力し、生活を切りつめて貯めた預金から一口一万円の組合債を買ってくれた方もいました。それぞれの血のにじむ ような努力と協力で一九七二年、一四〇〇坪の土地を買うことができました。荒れ地に未開の周辺…不安もありましたが、組合員の熱い想いと汗の結晶である病 院建設という「夢」の実現に向かう第一歩でした。

 その後も、設備の新増設や活動を広げるにあたり、組合員さんに出資や増資を呼びかけてきました。また、自宅で療 養したい人が増え、住みなれた地域で安心して暮らそうと、在宅福祉センター建設にもとりくみました。現在四つの介護事業所が地域にささえられ、毎日たくさ んの方がたが利用しています。

 (感想)今回、四〇周年フェスティバルに関わって、良かったと思うのは、医療生協の歴史とともに歩んでこられた 関井さんの話を聞けたこと。患者さんと職員が力を合わせてつくりあげてきたことにあらためて感動し、自分たちもそんな活動をすすめたいと思いました。人と 人とのつながり、きずなを大切にしていくことの大切さも学びました。今まで、組合員拡大の場で、自分の職場を中心にした話をしていましたが、医療生協の目 標や歴史についても少し話せるようになりました。また、医療生協の活動を若い職員や多くの職員にも伝え、組合員との共同の営みを実感していけるような機会 をつくることが必要だと思いました。

 (民医連新聞 第1319号 2003年11月3日)

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