民医連新聞

2021年11月16日

第15回全日本民医連 学術・運動交流集会 オンライン開催 ケア実践は一人ひとりの尊厳を養う活動 岡野八代さんの記念講演から

 全体会では同志社大学大学院教授の岡野八代さんが記念講演。「ケアと多様性を大切にする社会へ」がテーマ。女性たちに偏っている家事・育児・介護などケアの問題を取りあげました。(多田重正記者)

 「何が女性たちの社会的地位を低くし、生き方を狭めているのか。その理由を考えると、どうしてもケアに行き着く」と切り出した岡野さん。ケアが女性に押しつけられている理由として、政治、経済、社会などの中心が男性で、ケアをしない「ケアレスマン」によって占められている問題を指摘しました。ケアは社会に行き渡り、あらゆる人・社会が依存しているにもかかわらず、担い手は偏っており、「担い手になるほど政治の中心から遠ざけられる」問題にもふれました。

コロナ対策に現れたケアレスマンの害悪

 ケアレスマンの害悪の一例として岡野さんは、日本で新型コロナウイルス対策として行われた昨年の小学校・中学校・高校の一斉休校要請を挙げました。一斉休校でコロナ対策の最前線に立つ医療・介護労働者にもしわ寄せがいきました。「とくに小学校低学年の子どもを抱える女性はパニックに陥ったのでは。ケアレスマンの想像力のなさを象徴する首相の独断」と批判しました。
 さらに「誰にでもできること」のように軽視されているケアが、食材の買い物を例にとっても、在庫を点検し、数日分の献立を考え、食材の偏りや個人の好き嫌いなどを考慮するなど、自分とは違う人のニーズを考え判断し、試行錯誤をくり返すもので「その手間暇はケアしない人にはわからない」と岡野さん。
 一斉休校でも、学校という生活の中心を奪われた子どもたちの不満への対応は、家族に押しつけられましたが、「安倍首相は『WHOCARES?』(※誰も気にしないよ)だったと思う。この政治を転換しなければいけない」と話しました。
 新自由主義的な経済のもとでは生活の多くが仕事に割かれ、子育ても「少しでも自分の子どもを有利に」と競争的になります。休日も子どものためにしばしば金銭を必要とし、「子どもたちは買い物をするために生まれてきたようになっている」こと、ケアは家族・個人の自己責任にされている問題も解説しました。

ケアは社会に必要不可欠なインフラ

 一方、ケアは道路や送電網などと同様に、社会に必要不可欠なインフラ(基盤)であると指摘。アメリカの経済学者ナンシー・フォーブレさんが、「ニューヨークタイムズ」紙上で「保育は女性が働くためのインフラ」で、社会政策に盛り込むよう求めたことも紹介しました。
 また、ケアの実践は他人に配慮し、気遣うことなどを通じて道徳観や、観察力などを磨くことにつながるとともに、ケアされる側も自分を取り換えのきかない存在として自覚するなど、一人ひとりの尊厳を育む活動でもあると強調しました。
 新型コロナ対策で、国民のいのちよりも経済を優先する日本の政治についても、「憲法破壊」の政治と関連しており、「自分たちの権力や経済的効果、国の安全保障のためには、国民のいのちが犠牲になっていいという権力観が支配していると思う」と岡野さん。「改憲論者が憲法9条(戦争放棄)を敵視するのは、同条の根幹にある『国は誰も犠牲にしてはならない』という政治家への命令が邪魔だと考えているから」と話しました。
 9条を敵視する人は、一人ひとりの人権を尊重する憲法の個人主義や、24条(両性の平等)も敵視しています。性別役割分業の強要は、家庭内に上下関係をつくることになり、家族のために「我慢する人」「我慢しなくていい人」という関係をつくります。しかし、24条はこの上下関係を「つくってはならない」としたもので、「選択的夫婦別姓すら認めない社会に抵抗する根拠になる」と岡野さんは強調します。
 「いかに私たちが個を豊かに構想できるか。ケア実践は苦しいけれども(個人の)尊厳を養い続ける活動だと社会に発信できれば」と語りました。

※「ケアするのは誰か?」の意味だが「そんなこと誰も気にしないよ」という意味でも使われる。アメリカの政治学者ジョアン・トロントさんと岡野さんの共・訳書(2020年、白澤社)の原題。


おかの・やよ
同志社大学大学院教授。専門は政治思想、フェミニズム思想。「安保法制の廃止と立憲主義の回復を求める関西市民連合」の一員としても活動。

(民医連新聞 第1749号 2021年11月15日)

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