民医連新聞

2021年12月7日

あれから10年 私の3.11 ⑲諦めず声あげたたかう沖縄で私も 沖縄在住原発事故避難者 久保田美奈穂

 私は当時、茨城県から1歳と6歳の子どもを連れて沖縄に避難しました。原発事故が起こる前、自分が被害者になるまでは、いろんな問題に対して無関心でした。「かわいそう」「大変そう」と思っても、「自分じゃなくてよかったなぁ」とホッとしていました。「反対運動をしている人は心配性で、なんでも反対したいのだろう」と思っていました。なぜなら、日本は安全で、何かあれば守ってくれて、何かあればメディアが報道すると思っていたからです。それは大きな間違いでした。
 沖縄で原発や放射性物質の専門家、被爆した人を何十年も診てきた医師に出会い、必死で学びました。「生業(なりわい)を返せ、地域を返せ!」福島原発訴訟の原告になり、政府や東電との交渉の場に参加し、さまざまな公害被害者の話も聞きました。
 また、高江の「ヘリパッドいらない」行動やオスプレイ配備阻止行動、辺野古の座り込みなどにも参加しました。縁があり「不屈館・瀬長亀次郎と民衆資料」に勤務し、沖縄戦前後や米軍統治下から沖縄がずっと抱えてきた問題を知りました。声をあげている人たちを、「なんでも反対したい人」と思った自分を恥ずかしく思いました。また、さまざまな問題が起こっているのは知っていたのに知ろうともせず、無関心でいた自分を後悔し、反省しています。
 子育てと仕事をして声をあげる大変さ、やり続けることの大変さを知りました。
 取材を受けても私の思いとは違い、そのジャーナリストのいいように切り取られ、ひどい書かれ方をしたりもしました。何度も傷つき、何もかも嫌になり、やめたくなることもありますが、今はささえてくれて信じてくれる仲間や先輩たちが、たくさんいてくれるのでがんばれます。
 米軍統治下に亀次郎さんや民衆のみなさんが諦めず、声をあげ行動したことで勝ち取ってきたことがたくさんあります。いまでも沖縄はたたかいが続いています。私も沖縄のたたかいに学び、自分ができることは何か考えました。沖縄のさまざまな問題、原発事故の問題を知ってもらいたくて、今年の3月に写真展をしました。全国でこの写真展ができたらいいなと思っています。
 過去は変えられないけど、未来は変えられる―。一人にひとつの力があり、一人ひとりが社会をつくっていて…、一人ひとりが大切にされる社会になりますように。


【お詫びと訂正】11月15日付の本記事中、「東京電力東海第二原発」は誤りで、正しくは「日本原電東海第二原発」です。

(民医連新聞 第1750号 2021年12月6日・20日)

お役立コンテンツ

▲ページTOPへ