民医連新聞

2003年11月17日

命・平和は宝JB沖縄 共感できる仲間と出会えた3日間 -第30回全国青年ジャンボリーin沖縄ひらく-

 一〇月二六~二八日、第三〇回全国青年ジャンボリーを沖縄県読谷村残波岬(よみたんそんざんぱみさき)で開催。全国から一〇三七人の青年職員が参加しました。(汐満忍記者)

 今回のテーマは「命どぅ宝、平和がいいさぁ、いちゃりばちょうでー」。

 「テーマの、いのちは何にもかえがたい宝だという言葉は、国内で唯一地上戦を体験した沖縄の人びとの心の底から の叫び。“いちゃりばちょうでー”とは、ひとたび会えば、その人を兄弟のように親身にしようという、平和や人との調和を重んじる沖縄の心をあらわします。 有事法制や憲法改悪の動きのなか、沖縄で全国ジャンボリーを開催する意味は大きい」。伊良波(いらは)禎(ただし)実行委員長はあいさつで、いのち・平和 の尊さをつかんでほしいと訴えました。

 三〇回目を迎えた全国青年ジャンボリー。一昨年の奈良ジャンボリーから二年をかけ、各県連から選出された約五〇人の全国実行委員会、沖縄の現地実行委員会と青年職員らが準備をすすめてきました。

 またこの間、地協や県連では、単位ジャンボリーを開催し、財政活動などのとりくみを重ね、参加者を送り出しました。

 民医連五〇周年の節目にあたり、実行委員会が呼びかけた「わたしたちのルーツを探ろう」に応え、各県連単位で作成した民医連の歴史パネルが所狭しと展示されました。

 学習講演では、近藤良明全日本民医連理事が講師として、「民医連の五〇年の歴史と民医連の存在意義」を熱く語り、感動を与えました。

 二日目はフィールドワーク。バス二四台に分乗し、一二のコースで、二〇万人の犠牲者を出した沖縄戦の戦跡や、沖縄本島の面積の約二割を占める米軍基地をめぐりました。

 ガマ(自然の洞穴)の野戦病院の跡を訪れ、当時の恐怖を想像し、国内の米軍基地の七五%が集中する沖縄の姿を目 の当たりにした参加者。「やっぱり、NO・WAR」「来てみないと分からないことが確かにある」「私たちは何をすべきか? 考えた」「民医連で働いている 意味を再認識した」などの感想を残しました。

 たくさんの交流のなかで「こんなにすぐ仲間になれるなんて」「久しぶりに心から楽しんだ」「すなおに仲間と一体になれた」などの喜びも生まれました。

「沖縄ガイド」70人がんばる

 「自分たちが生まれ育った沖縄のことを、学習して知った歴史や現状を、思いもこめて自分の言葉で伝えよう」。

 フィールドワークでは、沖縄の参加者七〇人全員が「平和ガイド」として奮闘しました。二四台のバスに二~三人ずつ乗り、車中や基地・戦跡などの体験ポイントで、自ら作成したガイドメモをもとに説明しました。

 担当コースごとに作成したメモは、一コース分でノート一冊分にも。本番までに何度も練習したのか、ワープロの活字の上に、さらに細かなメモ書きやマーカーペンで追記がされていました。

 現地の受入準備が本格的にスタートしたのは約一年前。青年職員たちは、平和ガイドの準備を二カ月間も集中的に行いました。

 毎週月曜、先輩職員や外部の人を講師に学習会。「基地問題」はシリーズで三回開催。火曜日は学習担当者の会議、水曜日は欠席者の会議…。交替勤務の職員にも配慮して設定しました。学習メモづくりにも一人ずつ事務局がつきあい、週末には実際にバスを走らせ、予行演習も。

 現地実行委員会事務局長で専任で準備にあたった比嘉(ひが)瑞(みず)己(き)さんは言います。

 「本番まであと数日となると、毎日誰かが“ジャンボリー部屋”を訪ねてきました。『資料ありますか』『あそこで は何をしゃべればいいですか』って。『自信がないよ』と泣きそうな彼女のノートを見ると、忙しい業務の合間に書き込んだ文字がぎっしり書いてありました。 本番では緊張でうまく話せなかったかもしれません。でも、平和について学び、行動しながら、自分の言葉を見つけ、ガイドをつとめあげた素敵な仲間を、自慢 したい気持ちでいっぱいです」。

24台のバスで続ぞくと

 午後二時三〇分、約一〇〇〇人の参加者を乗せた二四台のバスが那覇空港から一時間かけて読谷村(よみたんそん)のいこいの広場に続ぞく到着。

 開会式前、「久しぶり」「初めまして」のあいさつが飛び交いました。すぐに班対抗の「万歩計競争」でアイスブレイクです。班に一個の万歩計を交替で振り続け回数を競いました。優勝した班が「開会宣言」しました。

「めんそーれ」で開会

 いよいよ開会式がはじまりました。「第30回民医連全国青年ジャンボリーin沖縄 スタート!」のかけ声に、一〇〇〇個のジェット風船が宙に放たれました。

 つづいて、めんそーれ(いらっしゃいませ)沖縄と、民芸団の人たちが、琉球舞踊を披露して歓迎(写真)。沖縄の郷土色あふれた踊りを堪能しました。

 伊良波禎実行委員長は登壇すると、なんと三線(さんしん)の弾き語りで島唄を熱唱しました。その後、沖縄開催の意義を心をこめて訴えました。

 新垣安男沖縄民医連会長、長瀬文雄全日本民医連事務局長がそれぞれあいさつ。伊藤淳全日本民医連共済会専務理事が、寄付金二〇〇万円を実行委員長に手渡しました。

1000人で踊って大交流

 再び一〇〇〇余人が一同に会しました。沖縄民医連の職員がエイサーを披露したあと「風になりたい」の曲に全員でダンスを練習。

 この時、上空を夜間離発着訓練中の米軍機が飛んでいましたが、その爆音は歌声にかき消され、全く聞こえませんでした。

本音で語り合った

 二七日の夕暮れ時の班の時間。一〇〇班のうち、約半数が残波ビーチで「班の時間」を過ごしました。

 フィールドワークの感想を中心に、沖縄戦のこと、平和のこと、いのちの大切さについて話し合いました。ここで話し合った内容は班ごとの「ピースアピール」の中に生かされました。

人文字&民医連のルーツ

 民医連の五〇周年の記念に、参加者全員で紅白のうちわを手に持ち「人文字」をつくりました。

 会場横では、ジャンボリーが呼びかけた各県連の「ルーツを探れ」の中間報告の展示を行いました。

学んだ「民医連の50年」

 近藤良明理事の話から

 戦前の無産者診療所の運動の流れをくみ、戦後、医療から遠ざけられた農民や労働者とともに各地で「民診」がつく られ、一九五三年に全日本民医連が結成され、六一年一〇月に現在の綱領が確定するまでに、様ざまな議論が行われました。前文「われわれの病院・診療所は働 くひとびとの医療機関である」の「の」に民医連の性格と立場がこめられています。

 以降、水俣病、大気汚染などの公害裁判、伊勢湾台風をはじめ様ざまな自然災害への救援活動、労災・過労死問題などにとりくんできました。

 八〇年代に入職した私は、北海道でトラック運転手などに二四時間密着した糖尿病ターゲスのとりくみ、阪神・淡路大震災の際、野戦病院と化した病院内で葛藤にさいなまれながら奮闘した青年看護師に、大きな感動をうけました。

 参加者は「民医連の歴史や綱領についてあらためて勉強できた」「全国の経験や現場の声を紹介しての話だったのでわかりやすかった」などの感想をのべていました。

悲劇の現場、証言みた

 二四台のバスが出発。一二コースの一つに汐満記者も乗りました。

 一九四五年四月一日に米軍が沖縄本島に上陸。会場の残波岬から南へわずか数キロの読谷(よみたん)海岸です。ここから二〇万人の命を奪った沖縄地上戦がはじまったのです。

 最初に車中から見たのは楚辺(そべ)通信所(象のオリ)とトリイ通信施設。「携帯電話での会話も傍受されている」との説明に一同から驚きの声があがりました。

 ひめゆり平和祈念資料館では、ひめゆり部隊の生存者の証言ビデオをみて、館内を見学。遺影のある「証言」コーナーで証言集を読みました(写真左)。

 次に、糸満(いとまん)市の県立平和祈念資料館へ。九九年に新しく建設された際、稲嶺知事の圧力で展示物が修 正・変更されました。ガマ模型内の日本兵が住民と幼児の口を封じるように向けていた銃口を、日本兵の顔と銃口の向きを住民を守るかに見えるよう変えられた との説明がありました(写真右下)。

 読谷村のチビチリガマへ。「米兵に辱めをうけるより死を」と親子、住民同士が石や鎌で殺し合った悲劇の壕。避難 した住民一四〇人のうち八三人が亡くなりました。現地でガイドをしてくれた沖縄医療生協の組合員さんは「あまりに悲惨で、ガイドになるのをためらった」 と、語りました。

 参加者の一人は「ガマに入った体験が自分の平和への思いを強くした」と、話していました。

平和への決意あらたに

 湯浅陽子事務局長が、三日間のまとめ報告をし、次回開催の北海道にジャンボリー旗を引き継ぎ。最後に全員で「島人ぬ宝」を大合唱し、閉会しました。

 「戦跡めぐりで体験したこと、繰り返してはいけない戦争の悲惨さを伝えます」「ジャンボリーに参加して平和とい のちの大切さを共感できる仲間と出会えて良かった」「全国の仲間が、仕事も平和の活動もがんばっていることを知りました。わたしもがんばります」など、感 想文には感動がつづられていました。

ポスター、ワッペンの普及と活用をよびかけます 全日本民医連の「ポスターをまち中に!」のよびかけにこたえて、一〇月三〇日、東京ほくと医療生協で“商店街ポスター貼り大作戦”が行われました(写真)。

 ポスターの他にも、ピースワッペン、シールの全職員への普及をよびかけています。

〔ピースワッペン(四〇円)シール(一〇円)、ポスター各種(無料)〕

*ポスター、ワッペンなどの注文、問い合わせは各県連まで。

(民医連新聞 第1320号 2003年11月17日)

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