民医連新聞

2003年12月1日

「時代」をつなぎ未来へ 青年が探訪する民医連の歴史

診療所ができて「生活と健康を守る会」もつくったんやで

 

 生活相談・生活保護受給相談のエキスパートとして活躍する「生活と健康を守る会」をご存じですね。各地域 で私たちと協力する、社会保障の推進団体です。発祥地は大阪。民医連の診療所・柏花診療所の誕生と同時に生まれたのです。柏花生活と健康を守る会の会長の 沢崎道雄さん(79)、柏花健康友の会の役員・和田美頭子さん(76)から、診療所職員・山岡務さん(28)が聞きました。(小林裕子記者)

山岡 なぜここに診療所ができたのですか? 守る会との関係は?

沢崎 当時私は二三歳で、兵隊から帰ってきたばかりでした。父の三郎が、診療所の建設運動を一生懸命やっており、私も感化を受けたのです。

 戦後ここいらは無医地区でした。一九四七年に御幣(みて)島(しま)にできた西淀病院が良いと評判で、通う人も多かったのですが、なにぶん不便。それで「この地域にも民主診療所を」と運動になったのです。

 西淀病院に相談し、一口五〇円の資金を集め、何回も会議を開きました。賛同者は多く、みんなの気持ちがぴったり合っていました。

 四九年、いまの場所に診療所がオープン。長屋を二軒つなげたものでした。初代所長は岡本(高森)芳子医 師。高熱の労働者がリヤカーで運ばれてきたり、「保険だけで診てくれる」という評判に淀川を越えてくる患者も。インフルエンザ流行時には道にも患者があふ れました。往診は自転車です。大家さんが、看護婦の子どもの面倒を見るといった姿もみられました。

沢崎 「健康を守る会」が設立されたのは「診療所建設をすすめた『診療所をつくる会』を解散するのはもったいない。活動を継続しよう」ということになったからです。初代会長は父でした。

 この「健康を守る会」はまたたく間に大阪じゅうに広がりました。班会で、医療の話題や暮らしの困難、願い が出されます。上・下水、道路の問題、「保育所・市営住宅がほしい」「川が臭い」など様ざまな要求を持って、市役所へ交渉に行きました。折しも五〇年、 ジェーン台風が上陸。高潮の影響で大阪市内の四万戸が全半壊、死者三三六人。西淀川区ほぼ全域が水に浸かり、水は二週間も引かず、病人が多数出ました。小 学校へ避難した人、二階に閉じこめられた人の診療に、沓脱タケ子医師らがイカダで往診した話は有名です。

沢崎 ちなみに、「全国生活と健康を守る会(全生連)」の結成は関西から呼びかけたんですよ。

 五二年に大阪府の「健康を守る会」の協議会が発足。その時、関西の会員は約二万世帯に。関東・東北で生ま れていた生活保護運動を中心とした「生活を守る会」と合同、五四年に「全国生活と健康を守る会」が結成され、「働かせろ、食わせろ、病気を治せ」を求める 全国的運動に踏み出しました。

沢崎 六〇年安保のころ、毎日のように市役所に押しかけたね。大阪市の国保をつくった時も、毎週学習会を開き、数千人でデモをして、庁舎内に連日座り込んだ。黒田府政が誕生し、その後老人医療費無料化につながった。あのころ、生活は苦しかったけれど、楽しかった。

 六一年二月、新国保法にもとづく大阪市国民健康保険改善の運動は大詰め。大阪市の当初案は「本人五割・家 族五割」。しかし、医師・歯科医師会の反対や住民に押され「本人七割・家族五割」を提案。市議会は一致して当局案を突き返しました。日を追って増える陳情 団の座り込みは玄関から四階まで。市議会はマヒ。しかし突然、自民党の単独採決で「本人八割・家族五割」に。それでも当時は全国随一の高水準。これは八二 年まで続きました。

和田 大阪の空は今もきれいとは言えないけれど、当時は昼間も霞がかかったようにくもり、車はライトをつけて走るし、洗濯物は黒くなるし、灰色の鼻水が出ました。七四年ころ、咳が止まらず、診療所で「公害病」と言われ、三年後に認定を受けました。

 診療所では子どもさんのぜん息発作を目にしましたが気の毒で。患者は捨て身で青空裁判をしました。布団を持って徹夜で交渉したり。当時は自動車メーカーも役所も今以上に対応がひどかった。

 インタビューの途中で、沢崎さんに電話が。「死にたい」と書き置きして家出した人の相談でした。

沢崎 せっぱ詰まった相談が多いです。役所は「社会保障は相互扶助だ」というけど、違います。自立 を助ける制度じゃなくちゃ。最近、これまで勝ち取ってきた制度が崩されていくような気がします。日本もね、戦争しなかった五〇年があったから、何とか社会 保障をささえられたんです。今みたいに軍事に金をかけるようになったら、おしまいやな。

和田 戦争が起きると、人間が人間でなくなるんです。絶対やっちゃいけない。

沢崎 最初に「この地域にはお医者がなかった」と言いましたが、本当は開業医さんがあったんです。 ところが戦争が始まり、軍医として招集されました。敗戦後は帰って診療再開されたのですが、間もなくその医師が亡くなってしまったという経緯です。戦地で の無理がたたったんです。当時、多くの医師や看護婦が戦地で殺され、過労で亡くなっていました。

 山岡さんは若いから、戦争の話を知らないでしょう? ついさっきまで生きていた隣の人の頭が吹っ飛ぶんですよ。

山岡 ふだん、お二人とは友の会活動について「どうする?」なんて話はするけど、こんな話は聞かせてもらうことはなかったです。

 当時の若者からみると「いまの青年はあまり元気はない」というご指摘ももらうのですが、でも大阪城公園で高校生 たちがつくった反戦の人文字や、集会にたくさん来る青年たちを見ると、平和への気持ちが育てられているのは確かだと思うんです。今日の話のように、歴史を 知るってことも大切ですよね。診療所でも「反戦平和映画会」や「戦争体験をきく会」をやっています。今後もがんばります。

 ありがとうございました。

(民医連新聞 第1321号 2003年12月1日)

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