民医連新聞

2022年2月22日

あれから10年 私の3.11 ㉒市民発電、脱炭素を若者たちとともに 宮城・若林クリニック所長 三戸部 秀利

 3・11、当時62歳、「退職金で釣り船を」の定年後の夢は打ち砕かれました。長期停電、仙台港の石油基地炎上とその後の燃料不足、そして原発事故。現場での被災者支援や病院再建の課題に追われる一方、社会を動かすエネルギーの問題も突きつけられました。結果的に原発を黙認してきた自分を恥じ、その後の10年、エネルギー問題に片足をいれることになりました。
 自省から脱原発宮城金曜デモに、仕事帰りに参加するようになりました。さらに原発反対だけでなく、対案として自分たちで電気をつくろうと、デモ仲間に呼びかけたのがきっかけで、NPOきらきら発電市民共同発電所が、2015年に立ち上がりました。
 それから6年、たくさんの市民の資金協力もあり、1号機(津波被災地の若林区井土浜)、2号機(太白区の保育所)、3号機(塩釜の保育所)、4号機(津波被災地の亘理町長瀞(ながとろ))、5号機(多賀城市の病院駐車場)、6号機(津波被災地の宮城野区蒲生(がもう))まで、太陽光発電所の建設がすすみました。
 左下は蒲生発電所開所式の写真です。津波で2人の息子を亡くした笹谷由夫さんが、供養のために建てた「舟要洞場(しゅうようどうじょう)」の屋根を借りて太陽光発電所を建設しました。この発電所の建設は、すべて地域の人びとの寄付でまかなうことができました。
 この6号機には、供養に加えてもう1つの意味があります。それは蒲生に隣接する仙台港で、2017年から稼働を強行した石炭火力発電所(仙台PS)への抗議です。この発電所は関西電力の子会社で、電力は首都圏に売電されます。「利益は関西、電力は関東、汚染は東北」、原発と同じ構図です。この理不尽に怒った住民は、差止訴訟を起こしました。3年間の裁判闘争で結果は敗訴でしたが、仙台港への四国電力の石炭火力進出計画を撤回させ、横須賀や神戸の石炭火力差止訴訟へとつながりました。
 このようなエネルギーと環境をめぐる地域運動の中で、気候危機を訴え、気候正義を求める若者たちとの連携も生まれました。右上は、蒲生発電所前で、仙台PSの煙突を背景に、抗議のスタンディングを行ったときの写真です。震災後10年、環境やエネルギー問題で若者たちにバトンを渡していきます。(医師)

(民医連新聞 第1754号 2022年2月21日)

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