いつでも元気

2022年4月28日

神々のルーツ 
「八幡の神」と新羅の姫

文・写真 片岡伸行(記者)

八幡造と呼ばれる独特の形をした宇佐神宮本殿(大分県宇佐市)国宝に指定されている

八幡造と呼ばれる独特の形をした宇佐神宮本殿(大分県宇佐市)国宝に指定されている

第5回 宇佐神宮、出石神社

 神社の歴史から日本の成り立ちを探るシリーズ。
 今回は約4万4000社と日本で最も多い神社「八幡さん」の総本宮・宇佐神宮を紹介します。
 その歴史をひもとくと、朝鮮半島にあった国、新羅との縁が深いことが分かります。

 小雨ぱらつく境内は人の姿もまばら。樹木から落ちる雫が石畳を濡羽色に染めていました。ここは「八幡さん」の総本宮宇佐神宮(大分県宇佐市)。ヤマト王権と天皇家が重視した「上七社」の一つ、京都府八幡市の石清水八幡宮がこの系列です。
 宇佐神宮という名称になったのは1873年(明治6年)のことで、古くは八幡大菩薩宇佐宮、比売神社などと呼ばれました。八幡大菩薩(八幡神)は15代大王※1の応神とされ、実在したとすれば4世紀ごろの人。比売神は「新羅の姫」※2とされます。どんな関係があるのでしょう。

「辛国の城」から日本へ

 〈辛国の城に八流の幡とともに天降り、日本の神となり(略)我は誉田天皇なり〉
 これは1313年に編述された『八幡宇佐宮御託宣集』(全16巻、以下『託宣集』)に繰り返し出てくる記述です。誉田とは応神の名で、これをそのまま読めば、八幡神は辛国つまり朝鮮半島から来て日本の神になったことになります。
 もともと宇佐の地の首長(国造)は新羅系とも言われる宇佐氏でした。比売神を祀っていたのはそのためでしょう。宇佐氏はヤマト王権に敵対した「磐井の乱」(527~28年)に加担したことで衰退。その後、王権の支配が進むと中央から神職のトップ(大宮司)が派遣されますが、祭祀を取り仕切ったのは宇佐郡辛嶋郷(現在の宇佐市辛島)を本拠地とした辛嶋氏でした。辛嶋は「韓嶋」とも書き、同じく新羅から移り住んだとされます。
 八幡神が現在の地・小椋山に祀られたのは725年のことですが、宇佐神宮はその前史から新羅との縁が深いのです。

母系の祖は新羅の王子

 実は、応神も新羅系のようです。『古事記』によれば、応神の母・神功皇后の始祖は「新羅の国の王子」である天之日矛(天日槍とも書く)。妻の阿加流姫(比売神)を追って新羅から渡来した王子は、但馬国(現在の兵庫県北部)に住み着き、その中心地の豊岡市にある出石神社に祀られています。応神はその子孫になります。
 ちなみに、前述の〈八流の幡〉とは「八方に8色の旗を立てる」という密教の習わしで、これが八幡の語源。密教とは仏教の秘密の教えのことですから、実は八幡さまの発祥は仏教で神道ではありません。神仏習合の産物です。八幡は「やわた」「やはた」と読み、八幡信仰の広がりとともに全国約60カ所にその地名があります。

古くは中国の神

 そもそも八幡神はどこから来たのでしょう。『託宣集』2巻の表題は「三国御修行の部」です。三国とは「月支、震旦、日本」で、月支は朝鮮半島南部に3世紀ごろまであった三韓(馬韓、弁韓、辰韓)の都が置かれていた地。震旦は古代中国のことで、インド・サンスクリット語で「秦(紀元前に中国を統一した帝国)の土地」との意味です。『託宣集』には次の記述が繰り返し出てきます。
 〈古吾は震旦国の霊神なり。今は日域鎮守の大神なり〉
 「われは古くは中国の神で、現在は日本を守る神である」という意味。主語の「われ」とは八幡神のことですが、ここに記述から漏れている「月支」を加えるとすんなりと意味が通ります。
 つまり、朝鮮半島の神であるわれは古くは中国の神で、今は日本の神である。こう読んで初めて「三国御修行の部」になります。八幡神(八幡大菩薩)のたどった経路を示しているようです。
 宇佐神宮所蔵の重要文化財に904年と刻銘のある銅製の梵鐘があります。新羅鐘と呼ばれるもので、新羅で8世紀ごろから鋳造されました。新羅からの足跡が物証としても残っているのです。(つづく)

※1 「天皇」の称号は第40代天武(673年即位)以降に使われ、それ以前は「大王」と呼ばれた(4月号参照)
※2 金達寿著『日本の中の古代朝鮮』(學生社)などに詳しい

いつでも元気 2022.5 No.366

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