民医連新聞

2022年6月21日

何よりもいのちを守るために いまこそ憲法に立ち返ろう

 参議院選挙を前に高まる改憲の議論について、改憲反対の立場から、3人に話を聞きました。(編集部)

縮まる戦争への距離
「政治屋」に憲法でブレーキを

元航空自衛隊 空将補 林吉永さん

 まず、みなさんに問いたい。日本国憲法の不備によって、安全保障を損ない国家主権が侵され、国民が不幸な立場に陥ったことはありますか? 北方4島、竹島、尖閣諸島は、9条改憲、加憲で戻ってきますか?
 答えはいずれも「NO」です。ウクライナ情勢を受け、国民が不安を募らせ、与野党そろって「改憲ありき」ですすむいま、圧倒的に足りないのは、戦争・安全保障・平和にかかわる教養です。
 ロシア語の「キエフ」からウクライナ語の「キーウ」に、言い換えられました。戦時中、英語の使用を禁じたのと同じ。ロシアとの敵対関係を煽るこの動きに、なぜ誰も疑問を持たないのか。何度門前払いを食らおうと対話に赴く外交努力を、なぜ尽くさないのか。
 いわゆる政治家を、私はあえて「政治屋」と呼びます。彼らはいま、自ら旗幟を鮮明にして軍事的〝対峙〟体制を整備しています。シビリアン・コントロール(文民統制)が戦争するという前提で国体を導いています。具体的な「国のかたち」への国民の覚悟はもちろん、国内的、国際的、法的、政治的、道義的、あらゆる戦争責任の議論も、自衛官の身分保証もないまま、戦争への距離は縮まっています。
 そこにブレーキをかけるのは、憲法しかありません。憲法9条は日本の戦争への距離を測るリトマス試験紙の役割を果たしてきた、と私は考えます。野党が与党を追及する根拠になり、国民は「またやってら~」と思いながらも国会論戦に耳を傾け、与党がどう自衛隊を使おうとしているのかが、明らかにされてきました。現に「柔軟に解釈」されてきた憲法を変える必要は、まったくありません。

専守防衛へ回帰を 戦争に学び「国のかたち」を議論

 私は、元自衛官としては珍しく公然と「改憲・加憲反対」「専守防衛へ回帰を」「敵基地攻撃(反撃)力は軍事を知らないバカバカしい議論だ」と主張しています。
 軍事的には「必要最小限度の防衛力」などあり得ない。弾薬の増量、軍備の増強にはきりがありません。戦争に勝利するために殺戮と破壊が肯定される軍事的合理性、機械的に「赤ランプが光ったらミサイル発射ボタンを押す」ことを求められる軍人、増えるばかりの世界の戦争……。私は、自衛官であったからこそ、考えた末に前述の結論に至ったのです。
 少なくとも、2014年の集団的自衛権行使容認の閣議決定までの戦後70年間、日本は戦争と無縁でした。私はそんな時代に幸せに退官しました。航空団司令拝命時、パイロットたちには「引き金を引くな」「正当性のエビデンスをつくるのが君たち最前線のミッションだ」と語っていました。先に撃たれて戦闘機から脱出して浴びる批判と恥辱が、日本の専守防衛、正義の保証になるからです。
 専守防衛が放棄されたいま、自衛官たちは何を矜持に任務を遂行するのでしょうか。制服の自衛官たちは実に従順です。危険なのは文民(政治屋)です。健全な戦争学をベースに、時間をかけて「国のかたち」から議論すべきです。(聞き手・丸山いぶき記者)

9条生かす平和外交こそ日本の進路

日本国際ボランティアセンター 顧問 谷山博史さん

 政府は、中国に対抗するためとの触れ込みで、戦争の準備にのめりこんでいます。戦争は国民の心に敵をつくることから始まります。「台湾有事」に日米が連携して対処することを確認した昨年4月の菅・バイデン首脳会談から1年もたたない間に、国民のなかに中国は台湾を侵攻する、その時は日本の有事だという刷り込みがひろがっています。
 米軍の対中国戦略は、南西諸島から、台湾、フィリピンに至る第一列島線で中国を封じ込め、沖縄を拠点に中国の基地や艦船を攻撃して中国の反撃能力をくじくというものです。この日米共同作戦として描かれた戦略の通りに、いま沖縄では自衛隊のミサイル攻撃基地がつくられ、日米の合同演習が頻繁かつ大規模に行われています。このことが中国に脅威を与え、軍事的なリアクションを呼び起こしています。「一触」が「即発」することで、交戦に発展しかねません。

すべての戦争は「つくられた戦争」

 私はこれまでイラク、コソボ、アフガニスタンなどの現場で、アメリカが始めた戦争を見てきました。それらはすべて避けられた戦争で、始まってからも早期に終わらせることができた戦争でした。
 すべての戦争は「つくられた戦争」でした。その最たるものがアフガニスタン戦争です。この戦争は20年も続きましたが、和平のチャンスは何度もありました。しかしアフガニスタン政府と国連がタリバーンとの和平交渉を始めようとしたとき、アメリカが阻止しました。そしてアメリカは和平合意を放棄して昨年、撤退します。
 アフガニスタンの人びとから和平の仲介をもっとも期待されたのが日本でした。それはアメリカの圧力があったにもかかわらず、日本が平和憲法のおかげでアフガニスタン本土に軍隊を派遣しないで済んだからです。
 ウクライナに侵攻したロシアの許すべからざる暴挙も、回避することはできたはずで、開戦後も停戦に持ち込むことはできたはず。これからもできると思いますが、バイデン大統領も岸田首相も、ただの一度たりとも停戦や和平の努力をしてきませんでした。それどころか、ウクライナにたたかい続けろとけしかけ、ロシアが和平に臨む道をもふさいでいます。
 アフガニスタン戦争とウクライナ戦争の延長線上に「台湾有事」があります。これを回避するには、外交しかありません。アメリカの軍事戦略にからめとられない唯一のよりどころが、平和憲法です。
 私たちの心には戦争が棲み始めているのだと思います。今こそ立ち止まって冷静になりましょう。日本国憲法の前文と9条を声に出して読んでみましょう。(寄稿、沖縄在住)

犠牲の上にできた憲法を守り、生かそう

サイパン戦で家族を失った 崎山稔さん

 日本で310万人、アジア・太平洋地域で2000万人以上もの犠牲の上に、不戦を誓った日本国憲法ができました。なぜその経験を現在に生かさないのか。憲法9条を変えようとしている自公政権に、怒りを覚えます。
 私の両親(父・積善、母・カマト)は1935年、親戚を頼って、日本統治領だったサイパンに移住しました。当時、経済的に困窮した多くの沖縄県民が、南洋群島サイパン島に入植していました。私のきょうだいはみんなサイパン生まれ。姉の光子、兄の哲二、私、弟の鴻、俊一がいましたが、私以外の家族は全員、戦争で亡くなりました。

死体踏んだ感触いまも忘れられず

 1944年6月、米軍はサイパン島を攻撃。当時私は4歳でした。小さかったのではっきり覚えていませんが、親戚から聞いた話では、光子(8)と哲二(6)は米軍の攻撃で亡くなりました。父も2人の亡骸を埋葬していたところを攻撃され、鴻(2)とともに亡くなりました。
 私は、母と乳飲み子だった俊一といっしょに防空壕に逃げこみました。しかし日本兵は「(俊一が泣くと)米軍に見つかるから殺せ」と命令。母は、俊一を圧迫死させるしかありませんでした。私は本能的に「ここにいたら自分も殺される」と恐ろしくなり、母の制止を振り切って壕を飛び出し、海に向かって逃げました。夜で暗く、ジャングルは死体だらけ。誤って死体を踏んだときの「ぐにゃ」っとした感覚は、いまでも忘れられません。
 気がつくと、私は米軍の孤児収容所にいました。別の収容所にいた叔母が、噂で私の居場所を聞き、引き取りに来てくれました。母も捕虜になったそうですが、自分の子どもを殺した自責の念から食べ物も喉を通らなくなり、亡くなったそうです。
 1946年、私は神奈川県に移り、叔母に育てられました。1995年、沖縄県に「平和の礎」()ができ、私の両親と姉、兄の名前が刻まれましたが、2人の弟は戦後、戦争で焼失した戸籍復活の際に「名前がはっきりしなかった」ことなどが理由で刻まれませんでした。これをなんとかしようと、私の娘が弟たちの名前が入った位牌をもとに県と交渉し、一昨年ようやく刻まれました。やっと家族がひとつになれた。コロナ禍が落ち着いたら沖縄へ確認に行きたい。
 民医連はいのちを守るために医療・介護はもちろん、社会保障と平和、人権と憲法を守る活動にもとりくんできました。私も元民医連職員です。いまも藤沢市九条の会の一員として毎月、駅前で「9の日宣伝」にとりくんでいます。みなさんもいっしょに、平和を守り、憲法改悪を阻止しましょう。(聞き手・多田重正記者)

(※)沖縄戦などで亡くなった全員の名を刻んだ県営の記念碑

(民医連新聞 第1762号 2022年6月20日)

お役立コンテンツ

▲ページTOPへ