いつでも元気

2007年7月1日

イラクでいま  〝テロとの戦い〟の最大拠点 ラマディで何が起きているか 「ファルージャ再建プロジェクト」の青年が来日

高遠菜穂子
イラク支援ボランティア
 三月、イラク西部の都市ラマディから、カーシム・トゥルキ(31)を招き、各地でイラクの現状について報告会をおこなった。彼は「イラク青年再建グルー プ」の主宰者で、「ファルージャ再建プロジェクト」(注)の現場の指揮をとっている。アンバール大学で機械工学を勉強したエンジニアだ。
 イラク戦争中は共和国防衛隊に所属。米軍の猛攻撃のなかで友人を失い、自分自身も被弾した。そのときの破片はまだ彼の左肩に埋まっており、就寝時には痛み、その場面がよみがえるという。
 「友人たちが黒焦げになって死んだのに、私は生き残ってしまった。死んでしまいたいと願っていたが、私はこの痛みを背負って生きていこうと決めた」
 彼は、こう語ったことがある。

きびしくなった出入国

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報告する「ファルージャ再建プロジェクト」のカーシムさん(左)と高遠さん(撮影・志葉玲)

 イラク人の出入国は、非常にきびしくなっている。かつては寛容だったヨルダンやエジプトでも、イラク避難民を抱えすぎたことを理由に、イラク人の入国を拒否するようになった。
 そのため私も、イラクの最新情報を持つプロジェクトのスタッフに会うことができなくなり、この一年間にヨルダンに七回、エジプトに一回いったが、会えたのは長期に滞在しているイラク人だけだった。
 そんななか、今年二月、マレーシアで一〇カ月ぶりにスタッフミーティングを開くことができた。現在、イラク人が比較的自由に出入国できるのは、シリアとマレーシアしかない。その場で急きょ、カーシムの来日が決まったのだ。

最初に反占領デモが起きた町
 ラマディはファルージャとともに、米軍から「テロとの戦いの最大拠点」と名指しされている。
 〇三年四月、首都バグダッドが陥落した直後、ファルージャやラマディでは住民が「占領反対」を訴え、デモをした。そこに駐留米軍は無差別に発砲をくり返 したのだ。死傷者が大量に出た。住民は、米軍がイラク国民を解放するためにきたのではないことをいち早く見て取ることになった。反占領の抵抗勢力が最初に ファルージャなどから出現したのには、こうした背景があったといえるだろう。
 メディアは米軍の蛮行をまったく報じなかった。カーシムは、米軍が引き起こした悲劇を伝えるためにバグダッドの報道センターを訪ねた。しかし、どのメ ディアもバグダッドで横行していたイラク人による「自由な略奪行為」に夢中で、ろくに相手にもされなかった。そればかりか、嘘つき呼ばわりまでされたとい う。
 カーシムが私たちフリーの日本人に出会ったのは、その直後だった。私たちは彼の話を信じた。
 〇四年四月、米軍によるファルージャ総攻撃の後、カーシムは、同年代のエンジニアや教師たちに呼びかけ「イラク青年再建グループ」を主宰し、本格的に町の復興再建にとりくみ始めたのである。

「非暴力」で町を再建しようと自分を奮いたたせて

インクスポット作戦

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06年11月、ラマディ市内アルワン地区。空爆された民家から遺体を引き出す住民たち

 ラマディは、ユーフラテス川が二手に分かれた中洲に位置し、かつては四〇万人が暮らしていた。いま、町に通じる橋は爆撃で破壊されているか、検問所が置かれている。
 「テロの根絶」といって掃討作戦をくり返している米軍は、昨年四月、ラマディでの戦略を大きく転換させた。
 それまでは、川の外側、ラマディの郊外に軍事基地を作り、そこから町に攻め入るという包囲攻撃だった。新しい作戦は町の中心部を真っ先に制圧する。落と したインクの染みが広がっていくような戦術で、米軍はこれを「インクスポット作戦」と名づけている。
 カーシムが語った「インクスポット作戦」はすさまじかった。
 ある日突然、市内の高い建物を米軍が占拠。住民を追い出した。屋上などに狙撃兵を多数配置し、狙撃の邪魔だといって周辺の低い建物をブルドーザーと戦車 ですべて潰していった。アジジア地区は、このようなやり方で完全に抹消されてしまった(写真左)。ここに、学校、ホテル、銀行、青少年センターなどがあっ たとはとても思えないほどだ。
 とくに軍事拠点にされやすいのが、やはり学校である。現在も市内の二〇の学校が軍事拠点として使われている。

報道されない市民の犠牲

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パトロール中の米軍に両親を殺され、泣き叫ぶ少女。タルアファル。05年1月18日(写真提供Getty Images/AFLO)

 強引な軍事作戦の下では、当然のことながら市民に大量の犠牲者が出る。歯がゆくてならないのは、それが報道には、まったく出てこないことだ。
 自爆テロによる死傷者や米兵の死亡は報道される。しかし掃討作戦や検問所でのトラブルなどによるイラク人死傷者は、まったくといっていいほど報道されな い。死者の多くは、救急処置を受けられず出血多量で亡くなった人だという。
 ラマディ市内唯一の総合病院も米軍に占拠され、軍事拠点として使用されている期間の方が長い。医者は何の設備もないところで負傷者などの処置に追われる ことになり、加えて医療物資の不足は極めて深刻なままだ。イラク政府保健省からの医療物資の配給は完全に止まってしまっている。輸血バッグはゆすいで再利 用、ジュースの缶を使っての輸血も当たり前になっているという。

「英語が話せる男」を捜せ

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旧フセイン政権が崩壊して4年目の07年4月9日、イラク中部ナジャフで米軍の占領に抗議する数十万人のデモがあった。宗教色を排除し、イラク国旗を掲げて統一イラクをアピールした(写真提供REUTERS/AFLO)

 カーシムはこのようなラマディのようすを、英文のブログで発信していた。市民が何に困窮し何を恐れているのかを詳述したこのブログは、アメリカを中心に 大きな話題となった。とくに反戦ムードが一気に高まっているアメリカからは、ジャーナリストや著名な映画監督、地方新聞からも執筆依頼が相次いだ。
 しかしこのブログを、米軍も注意深く読んでいたのだ。
 カーシムは個人情報をほとんど出していなかったが、「英語が話せる男」という一点で米軍は彼の捜索を始めた。
 昨年一一月、カーシムは自宅から兄とともに連行され、コンピューターは没収された。米軍基地に収監されている間、一日二回全裸にさせられ、軍の諜報機関 が彼の尋問にあたった。彼のブログはすでにプリントアウトされており、カラーペンでラインが引かれていたという。
 尋問官は、ラマディ市内の地図を示し「次の攻撃目標」として町のあちこちを指し示していったが、その一つは彼の自宅だったという。驚いている彼に、尋問 官は「あ、すまん。ここは君の家だったね」といった。それが何度もくり返された。カーシムは「脅迫されたと感じた」といっている。

日本の平和憲法の精神こそ
 今年一月、イラクの国内避難民が一七〇万人を超えたと国連が発表した。激増の背景には、ラマディなどスンニ派の多いイラク中部や西部で掃討作戦を激化さ せていることがある。今回、各地の報告会でカーシムはこう訴えた。
 「日本人と一緒に人道支援をする者として最大の困難は、日本の軍隊が人道支援のためといってイラクに派遣されていることだ。私たちが人道支援をしても日 本人と一緒にやっているとわかると、軍事スパイではないかと疑われてしまう」
 帰国直前の四月になって、彼を打ち砕くような報せが舞い込んだ。彼の従兄弟がイラク軍に連行され、その惨殺体がゴミ捨て場から発見されたというのだ。
 彼は「この残虐さに非暴力は勝てるのか?」とつぶやいた。私たちとの交流のなかで、「憎しみと暴力からは何も生まれない。報復の連鎖を断ち切って、心と 生活を再建することだ」と考えるようになったというカーシム。しかし、イラクの現実はあまりに酷い…。
 数日間の葛藤の後、彼は自分自身をもう一度奮い立たせた。
 「私は日本の友人から前向きな思考を学び、平和憲法についても学んできた。紛争の解決に武力を使ってはならない。――実際、私は“最も危険な場所”でそ の非暴力精神をもって生き延びてきた。これからは、苦しむ人々に、非暴力精神の強さと効力を証明していきたい」

■注 ファルージャ再建プロジェクト 高遠さんが現地スタッフと協力して、ファルージャ住民が避難している近隣地に学校、診療所などを建設している。
■寄付金の送り先は郵便振替で、
口座番号02750-3-62668 
イラク支援ボランティア高遠菜穂子

いつでも元気 2007.7 No.189

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