民医連新聞

2022年10月4日

にじのかけはし 第13回 コラム 気づきと揺らぎと葛藤と 文:吉田絵理子

 私が初めて女性を好きになることもあると気づいたのは、高校生の時だった。怖くなり、その感情はなかったことにした。
 大学生になり、また好きな女性ができた。この時の感情は無視するには大きすぎて、未来が見えず不安に押しつぶされそうで、お酒を飲んでは記憶をなくし、二日酔いで目覚めるような日々を送っていた。当時、私には付き合っている男性がいた。彼はとてもあったかい人で、彼となら結婚して、「普通」の家族をつくれるかもしれない。生まれて初めてそう感じた相手だった。でも、真剣に彼との未来を考えるほど、私のなかにある払拭できないモヤが浮かび上がってきた。ある日、彼に泣きながら話をした。「私はたぶん女の人を好きになる人間だと思う。女の人と付き合ってみないまま、あなたと結婚したら、いつか後悔してしまうかもしれない。だから別れよう」。彼は「試してみればいい、結果が出るまで待つ」と言ってくれた。そんなことをできるはずはなく、別れた。その後、初めて女性と付き合って、私は自分のセクシュアリティーを確信した。それでも、がんばって異性愛者として「普通」に結婚しなければと思ったことが何度かあった。
 大学生の時に、インターネットを介して繋がったセクシュアルマイノリティーの友人たちがいなかったら、私は同性と付き合うという一歩を踏み出さないまま、男性と結婚していたかもしれない。そうであったなら、私は結婚生活を続けられていただろうか。同性愛が違法とされる国で生まれていたら、どうだっただろう。
 逆のことも思う。「同性を好きになっても何も問題ないし、そういう人はあなたの他にもたくさんいるんだよ」。もし幼少期からそんなメッセージが感じられていたら、どうだっただろうか。
 今でこそ、私はバイセクシュアルだと名乗っているが、生まれた時からそういうアイデンティティーを持っていたのではない。ここに至るまで、いろんな葛藤があったし、人を傷つけたこともあった。そうとしか歩めなかった自分がいた。
 どんな人にも、語れないことや、見えないバックグラウンドがあり得ることを、忘れないでいたいと思う。


よしだえりこ:神奈川・川崎協同病院の医師。1979年生まれ。LGBTの当事者として、医療・福祉の現場で啓発活動をしている。

(民医連新聞 第1769号 2022年10月3日)

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