いつでも元気

2007年7月1日

いま、この人に 佐々木公一さん(東京・三多摩健康友の会) 難病患者、大学院へ 「生きることは可能性に挑むこと」

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節子さんと。患者同士のメール交流をもとに『生きる力』(岩波ブックレット)も出版

 六〇歳の難病患者が大学院受験に挑戦し、みごと合格。この春から学生生活を送って います。佐々木公一さん、民医連診療所の患者でもあります。全身の筋肉が次第に衰え、機能しなくなるALS(筋萎縮性側索硬化症)という難病とつきあって 一一年。動くのは首から上の筋肉だけ、意思表示は文字盤とパソコン、という重いハンデをもっています。それでも「病気をしている暇がないくらい忙しい」と 便りを出すほどの日々。「生きることは可能性に挑むこと」が信念です。

なぜ、難病患者が?
 東京・府中市の自宅を訪ねると、ヘルパーさんが佐々木さんの痰を吸引しているところでした。呼吸する筋力を失った佐々木さんの命は、人工呼吸器で維持さ れています。「痰は命とりになりかねません」と、妻の節子さん(57)。二四時間、三〇分に一度はこの吸痰作業が欠かせません。
 そんな佐々木さんが受験したのは、健康科学研究科(東海大学大学院)。そこで何を? 文字盤を通して会話しました。 「か・ん・じ・や・を・も・つ・ と・た・の・し・く・き・ぼ・う・も・て・る・せ・い・か・つ・で・き・る・は・ず」「そ・の・こ・と・を・も・と・め・て・が・つ・こ・う・に・い・ く」
 患者がもっと楽しく、希望を持てる生活を送るために必要なことは何か? これを介護される側でもある自らの実感をもとに、探求しようというのです。

告知は「死の宣告」だった

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動かせる左の頬にセンサーをあてて、1日6時間はパソコンに向かっている

 土建組合の専従として活躍していた佐々木さんを病魔が襲ったのは一九九六年の春、右手の力が落ち、秋には歩くことも困難に。医師の告知はALS、開いた 医学書には「原因不明、治療法なし、予後三~五年」と。まさに「死の宣告」。当時まだ四歳だった息子のことを思い、涙することも多かったといいます。
 しかし、告知と同時に主治医がすすめた日本ALS協会を通じ、同病の患者や家族に出会い、佐々木さんは持ち前の前向きさを取り戻していきました。ハン ディを持った難病患者の存在が、人を変え、組織し、社会に影響を与え続けていることに気づいたのです。
 「人手さえあれば、障害があっても人間らしく生きられる。そして、いつまでも知的活動、知的生産を可能とするALSの特性を活かして、新たな可能性を切り開きたい」

「通学が個人の仕事でなくなった」
 人工呼吸器をつけたALS患者の受験は、障害者の受け入れに積極的だとされる東海大学でも前例のないことでした。受験は、佐々木さんの解答をヘルパーが 文字盤で読みあげ、節子さんがそれを筆記するという共同作業でした。試験時間は通常の一・五倍に延長されました。
 四月から往復四時間かけて週二回の通学が始まっています。佐々木さん夫妻と運転手、へルパーで「チーム佐々木」を結成して通学。講義を受けます。大学に は「障害をもつ学生支援委員会」が設置されていて、佐々木さんの専攻学科の教授は初授業で、「佐々木さんの入学は、大学の障害者学生支援に大きな風穴を開 けてくれた」と話しました。

「通学が個人の仕事でなくなった」¦
 佐々木さんは毎週発行している「週刊/ALS患者のひとりごと」で書きました。
 発行は何日もかけ、特殊ソフト入りのパソコンで。動かせる左頬にタッチセンサーをあて、一文字の入力にも何度もスイッチを押しながら文章をつくります。 そのときどきの思いや政治への怒り、介護に思うことなどがつづられています。

病を得て知る「やさしさの連鎖」
 佐々木さんの発信は、昨年『やさしさの連鎖』(ひとなる書房)という一冊の本になりました。同書にこうあります。
 「病気になり、障害者になって、改めて気づくことがある。それは人間のやさしさの発見である。道をゆずってくれる人、助けおこしてくれる人、様々に手 伝ってくれる人…(略)助け合いや平等が人間の本来の姿なのだと実感している。障害者にやさしい町は、疑いもなく住民みんなにやさしい町なのだ」
 今日も佐々木さんは「出会い」と「行動」を信条に歩んでいます。
写真・酒井猛
文・鈴木太郎(詩人・フリーライター)

いつでも元気 2007.7 No.189

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