いつでも元気

2023年5月31日

神々のルーツ 聖武天皇と百済系の僧

文・写真 片岡伸行(記者)

平城宮跡歴史公園(奈良市)に復元された朱雀大路と高さ約20mの朱雀門

平城宮跡歴史公園(奈良市)に復元された朱雀大路と高さ約20mの朱雀門

 創建時の高さは5丈3尺5寸と今より1・3mほど高い16m余。※1 5階建てビルに相当する巨大な仏像の出現に、奈良の都はさぞ沸き立ったことでしょう。
 奈良時代(8世紀)に第45代聖武天皇が国力を尽くして建立したとされる奈良の大仏(正式名は盧舎那仏)。当時の時代背景と造立に関わった人々を見ると、古代日本の実相が浮かび上がります。まず、奈良の都(平城京)の風景を概観しましょう。

平城京の風景

 平城京ができたのは710年。唐の都・長安をモデルに、本格的な都市計画に基づき造営されました。東西約4・3㎞、南北約4・8㎞、北辺に1㎞四方の内裏(宮殿)を置きました。南面に正面玄関の羅城門(羅生門)が開くと、そこから幅約70m・長さ4㎞近くの朱雀大路が中央を南北に貫き、正門としての朱雀門が建ちます。
 平城京はやがて、中国大陸や朝鮮半島をはじめ中央アジア、インド、ベトナムなどから多様な民族が訪れる国際都市になりますが、貴族と呼ばれるごく一部の特権階級のために、その他大勢が苦難を強いられる社会でした。
 平城京の人口は約10万人(一説では20万人)とされ、うち貴族はわずか百数十人。役人は1万人程度で、残り9万人(あるいは19万人)が庶民でした。
 貴族の館は湿気を通さない高床式。※2 一方、農民らの家は地面を数十㎝掘り下げ、茅葺で覆っただけの柱すらない粗悪なものでした。割り当てられた田畑(口分田)を耕し、男は3人に1人の割合で兵役があり、女は蚕を飼って絹を織り、麻を植えて布を織る。過酷な労働に耐えきれない者は浮浪者となり、大きな土木工事のたびに都は仕事を求める浮浪者で溢れたといいます。※3

社会変革の僧・行基の登場 

 生活苦にあえぐ民衆に仏道を説きながら、河川の堤防や橋脚の築造、施療院の開設など今でいう民生事業を各地で興したのが遊行の僧※4・行基です。もともと橋を架ける技術は朝鮮半島から伝わりましたが、河内国の堺・蜂田郷(大阪府堺市)で生まれた行基は百済系の渡来氏族出身で、行基の師である道昭と義淵も百済系です。
 行基は行く先々で数千から数万の人々を集めたとされます。民衆の心をつかんで圧倒的な支持を得た行基に対し、大和朝廷は民心を惑わす危険人物として弾圧を加えました。しかし、号令一下で多くの技術者や労働者を動かせる「渡来系ネットワーク」を形成していた彼らを敵に回すのは得策ではないと、やがて考えを改めます。※5

聖武が協力要請  

 聖武は731年に行基らへの弾圧をゆるめると、三笠山の麓に733年に創建した金鐘寺(東大寺の前身、金寺ともいう)の運営を行基と同じ義淵の弟子だった良弁に委ねます。※6 相模国(現在の神奈川県)出身とされる良弁もまた百済系でした。
 さらに聖武は740年、構想中の大仏建立への協力を行基に依頼。行基はこれを承諾します。その3年後、聖武は正式に大仏建立の大号令(=「盧舎那仏造営の詔」743年10月15日)をかけました。いよいよ世紀の大事業「奈良の大仏」造立が始動するのです。
 それから9年後の752年4月9日、伝えられるブッダ生誕日の翌日、華厳宗の大本山・東大寺で古代日本における空前の国際的仏教セレモニー「奈良の大仏開眼供養」が開かれました。次号で大仏完成までの苦難の道のりを見ていきましょう。(つづく)

※1 大仏は地震や焼き討ち、大嵐などで何度も壊れ再建された。現在の大仏は1691年に再建されたもの
※2 当時の民衆は良民(農民など)と賎民(奴婢=奴隷)とに身分が分かれていた
※3 中西進著『古代史で楽しむ万葉集』(角川ソフィア文庫)などに詳しい 
※4 特定の寺院を離れ、各地を巡り歩き修行や布教に励む僧侶のこと
※5 杉山二郎著『大仏建立』(学生社)、金達寿著『日本古代史と朝鮮』(講談社学術文庫)などに詳しい
※6 良弁はその後開山された東大寺を統括する初代別当に。行基は745年、僧侶のトップである大僧正に就任する

いつでも元気 2023.6 No.379

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