民医連新聞

2023年11月21日

沖縄の平和・人権 守るたたかい 積み重ねて50回 辺野古支援・連帯行動 第50次記念事業

 10月22日、全日本民医連は辺野古支援・連帯行動が50次を迎えることを受け、記念行事を行いました。辺野古の視察や記念植樹、現地の職員や議員とも懇談し、米軍基地反対への思いを、あらためて確認しました。(稲原真一記者)

50次の歩み

 全日本民医連が、新基地建設に反対する沖縄で辺野古支援・連帯行動を始めたのは、2004年10月のことです()。沖縄では同年8月に、沖縄国際大学へ普天間飛行場の米軍ヘリが墜落する事故が発生。この事故をきっかけに、全日本民医連は、「平和や民主主義、人権を尊重し、一切の戦争政策に反対する」という民医連綱領の視点から、全国に沖縄への支援と連帯をよびかけて、行動が始まりました。
 以来、さまざまな困難がありながらも行動は続けてきましたが、2020年1月に行った第48次行動以降は、コロナ禍で休止を余儀なくされました。行動が再開したのは、約3年ぶりの今年5月のこと(5月22日号2面に掲載)。そして10月23~25日、第50次の節目となる辺野古支援・連帯行動を行い、参加者は累計で2721人となりました。これを記念し同月22日、全日本民医連は記念行事とレセプションを行いました。

沖縄への連帯、故人に誓う

 50次にわたる支援・連帯行動には痛恨の経験もありました。2008年4月、第15次の行動で、当時全日本民医連副会長だった束原進さん(医師)が、不慮の海難事故で亡くなるという出来事がありました。事故を受け、行動の中止も検討されましたが、全日本民医連は議論の末、継続を決定し、現在まで続くとりくみになりました。その束原さんをしのび、この日は記念行事に先立って辺野古の浜で追悼式を行いました。
 全日本民医連の増田剛会長や、束原さんの地元の長野県民医連から、副会長の番場誉さん(医師)や事務局長の岩須靖弘さん(事務)が、故人への思いを語りました。番場さんは、病理医だった故人を慕う、長野中央病院の検査室の職員から預かった寄せ書きを手に、「辺野古は当時よりもひどい状況。束原さんの遺志を受け継ぎ、私たちもがんばっていきたい」と語りました。

変わらない基地負担

 記念行事の会場まではバスで移動し、道中は沖縄県統一連事務局長で沖縄民医連の職員でもある瀬長和夫さんが、沖縄の現状を解説。日本の航空法を無視した域外の低空飛行の増加、琉球大学病院が米軍の海軍病院と一体となって、有事の際には兵士の救護に当たる準備がはじまるなど、まさに戦争前夜のような現状を説明しました。休憩で立ち寄った「道の駅かでな」では、展望台から嘉手納基地の視察も行いました。
 前日の21日には、「オール沖縄会議」が主催した「遺骨が眠る南部の土砂を辺野古に埋めるな! 10・21県民集会」が開催され、約650人が集まりました。こうした集会や選挙を通して、何度沖縄の民意を示しても無視する日本政府の態度に、瀬長さんは今の沖縄を「まるで米軍統治下に戻ったようだ」と憤ります。

結束して、あきらめないたたかいを

 午後は平和祈念公園で、沖縄民医連の職員も参加し、第50次を記念した「平和の樹」の植樹式を行いました。「平和の樹」は全日本民医連から沖縄県に寄贈され、平和祈念公園の敷地内に植えられました。樹のそばには、民医連綱領の一文が刻まれたプレートも設置。増田さんと沖縄民医連会長の座波政美さんがあいさつし、その後、くわとシャベルを使って最後の土を盛りました。座波さんは「沖縄はこれからも玉城デニー知事とともに、辺野古に基地をつくらせないたたかいを続ける。ひきつづき全国からのあつい支援と連帯を」と呼びかけました。
 その後、那覇市内の会場に移動し、記念レセプションを行いました。増田さんが開会のあいさつに立ち、「戦後も続く沖縄での理不尽に対し、全日本民医連はこれを自分事として捉え、支援・連帯行動を始めた。行動に参加した全国の職員の経験や思いは、各地にひろがり民医連を強くしてきた」と指摘。来年2月に沖縄で行う全日本民医連の第46回定期総会に触れ、「日本の民主主義、東アジアへの平和のメッセージになる総会をめざしている。これからも沖縄と強く結束して歩んでいきたい」と語りました。
 レセプションの冒頭は、これまでの支援・連帯行動の歩みをまとめた動画を視聴(※)。来賓として、歴代の全日本民医連会長経験者や沖縄選出の国会議員、地元議員などが参加し、それぞれの思いや祝辞を送りました。さらに第50次参加予定者なども合流して、大いに懇談しました。
 全日本民医連副会長で沖縄医療生協の理事長の上原昌義さんが閉会あいさつ。「ある時、支援参加者の『沖縄の痛みは全国の痛み』という言葉を聞き、民医連はすごい組織だと思った。沖縄には『勝つ方法は、あきらめないこと』という言葉があるが、すべての沖縄県民に伝わる言葉。今後も沖縄の痛みを多くの人に知ってもらい、全国とも連帯してがんばりたい」と決意をのべました。最後は参加者全員で、団結ガンバローのかけ声で閉会しました。
※全日本民医連のホームページ(会員ページ>委員会>反核平和委員会)から視聴可能


第50次参加者の声

沖縄の苦しみを知り、他人事から自分事へ
北海道、東区ひまわり薬局
赤石涼雄さん(2年目薬剤師)

 初めて訪れた沖縄は、びっくりすることばかりでした。バスでの移動中、きれいな道路が目に映りましたが、現地の人の「これは基地を受け入れさせるため、国が用意したアメ」との説明がありました。私はそこに民意を無視する国の強権的な姿勢を感じ、「まるで独裁。民主主義の時代にやることじゃない」と思いました。
 座り込みへの参加では、工事している業者や警備員も仕事でやっているのに、地元の人と対立していることには矛盾を感じました。そしてそんなことに、たくさんの税金が使われていることは、やはりおかしいです。実際に見た米軍基地(嘉手納、普天間)は、高台から見ても全体像が見えないほどの大きさで驚きました。見学している間にも3回の離着陸があり、そのたびに大きな音がして、これを毎日聞くのはつらいと実感しました。
 私は今回の行動で、基地の問題は決して沖縄の責任ではない、他人事ではないと感じました。ニュースなどではわからない現地の人のつらさ、苦しみに触れて、自分の身に置き換えて考えることができました。そして民医連の活動は、そうした困難な人とともに、理不尽に立ち向かうものなのだと気づきました。
 知らないこと、無関心でいることは、生活保護利用者への自己責任の押しつけのような偏見にもつながります。沖縄に限らず、これまで「自分には関係ない」と無関心でいた問題にも目を向け、小さくてもやれることをしていきたい。私にとって、新しい一歩を踏み出せた本当に良い経験になりました。

(民医連新聞 第1795号 2023年11月20日)

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