民医連新聞

2024年1月5日

人権を学びに多磨全生園をゆく 福島・浜通り医療生協入職6カ月研修

 福島・浜通り医療生協は昨年10月18~19日、東京都内で入職6カ月研修を行い、2023年度に入職した職員4人が参加しました。1日目は人権と差別の問題を学ぼうと、東村山市にある国立ハンセン病療養所、多磨全生園(ぜんしょうえん)(以下、全生園)へ。入園者の案内で園内をめぐり、直接、当事者の声を聞きました。(丸山いぶき記者)

差別・偏見、過酷な療養生活の証し

 10月18日、秋晴れの全生園を訪れた福島・小名浜生協病院の野﨑詩菜さん(看護師)、石上怜央さん(理学療法士)、山口幸人さん(理学療法士)、北畠直也さん(放射線技師)を、入園者の平野智さんが案内してくれました。
 全生園は、全国に13ある国立ハンセン病療養所のひとつです。東京ドーム約8個分の広大な敷地は、緑豊かな木々が生い茂り、地域住民の憩いの場でもあります。
 「ここは独身舎。私もここで1人暮らし。平屋一棟に7戸、どの棟も1人住んでいるかいないか。本当に人が減った」と平野さん。
 かつて1000人以上が暮らした全生園も、現在入園者は99人、平均年齢88歳。介護が必要になり、職員看護つきの施設(通称センター)に移る人が増えています。ただ、センターも新しい2~3階建ての夫婦舎や独身舎も、空室が目立ちます。園内には外来や病棟などの医療施設もあります。
 史跡もめぐりました。宗教施設が建ち並ぶ地区にさしかかり、「入園者がよく言うのは、療養所に入ってできなかったのは子どもをつくることだけ」と平野さん。社会から絶対隔離された療養所では、入園者が「患者作業」で、生活のためのあらゆる作業を行いました。外に出られないから劇場や野球場などの娯楽施設、かつては火葬場まであり、今も故郷に帰れない遺骨が眠る納骨堂もあります。逃走を防ぐために、結婚は認められましたが、男性は結婚が決まると断種手術を、女性は妊娠すると堕胎させられました。
 平野さんは言います。「みんな年をとり障害が増えてきて、面倒をみてくれる職員を増やしてほしい(全医労が同旨署名運動中)。入園者がさらに少なくなった時、どうなるのか。ハンセン病への差別と偏見の歴史と、過酷な療養生活の証し、国立ハンセン病療養所をどう残すかが問われている」。

「人生を返せ!」平野智さんの証言

12歳で療養所へ

 私は、1939年生まれ。現在84歳です。療養生活は12歳の時からだから、72年になります。
 小学6年生の時、突然保健所職員が家にきて「明日から学校に行かなくてよい」と、家中真っ白になるまで消毒されました。隣家はあからさまに雨戸をたてました。
 「無癩県(むらいけん)運動」という、県をあげたハンセン病患者の隔離政策がとられ、11月に駿河療養所(静岡)に連れて行かれました。道中、駅のホームでは「どこにも触るな」と言われ、保健所職員は後ろからついてきて消毒して回っていました。
 うちは相当貧乏で、療養所で3度の食事が食べられて安どした部分もありました。駿河療養所では小・中ずっと学年で一人でした。
 ハンセン病は昔、不治の病と言われましたが、戦後、プロミンという治らい薬が出て、その後も化学療法が進化して治る病気になりました。現在、ハンセン病新規発症患者はほとんどいません。療養所で暮らす私たちも菌陰性です。
 私も駿河でプロミン注射を始めました。12~20歳まで平日毎日、計何千本打たれたか。昔は不自由な人や病棟にいる人の看護・介護も「患者作業」でした。

ささえ合い、 たたかってきた

 1953年からの「らい予防法闘争」の成果、55年に長島愛生園(岡山)に開校した唯一の高校、邑久(おく)高校新良田(にいらだ)教室に行き、4年間過ごしました。愛生園での生活も劣悪で風呂は1日置きでした。
 卒業生には、就職や進学の道も拓けました。バブル絶頂期の大阪で塗装工として徹夜で働くような生活を2年続け、ハンセン病が再発し、駿河療養所に戻りました。
 あらゆる治療薬を使い、少し落ち着いた時に全生園に移りました。新薬で真っ赤な尿が出たことも。何年かして落ち着きました。
 全生園ではずっと、保護者代わりとして不自由な人の面倒をみて、何十人と葬式もやりました。
 さまざまな人権侵害の根拠法であった「らい予防法」が廃止になったのは、1996年。同法によって人生を奪われた入園者は、廃止だけでは到底納得いかないと、国家賠償請求訴訟を起こし、2001年に熊本地裁で原告が勝訴。国は控訴を断念して原告と和解し、賠償を決めました。
 看護師には「お金をもらえて良かったね」と言われました。私は心底腹が立って、「オレの金全部やるから人生を返せ!」と言いました。何もわかってない! これだけ長い間、閉じ込められて、賠償額は最大1200万円ですよ。

新入職員が心に刻んだことは

 4人から平野さんに質問をしました。

 石上 ハンセン病の症状や後遺症について教えてください。
 平野 後遺症で末梢神経に障害が出て手足の感覚がなくなるから、痛い、熱い、冷たいがわからず傷をつくりやすい。身体の一部分でしか汗をかけず、夏場は一日中水に浸かって過ごす人もいました。
 北畠 駿河療養所に入ったとき、なにか症状はあったのですか?
 平野 今思うと、太ももの一部に感覚がない場所がありました。それ以外は健康でした。
 入園した時は、なんでこんな身体に生んだんだと思ったりもしました。でも、両親も貧乏で何度も引っ越して苦労したと思います。ハンセン病家族だという記録がずっとついて回ったはずだから。
 山口 どう接してほしいですか。
 平野 こうして見学にきてくれて案内した人は、自分の部屋に上げて話すことも多いです。握手するのは苦手。手が冷たいから。
 昔、個人商店で「金はカウンターに置け」と言われことがあります。ハンセン病への偏見・差別ですよね。10円玉でバス運賃を払っていたら運転手からひどく怒られ、タクシーは「あんな怖いところ(全生園)行けるか」と乗車拒否。30年以上前の話ですが。
 野﨑 趣味はありますか。
 平野 子どもの頃から野球、テニスとやってきました。相当の年数やりました。幸い運動神経はよかった。けど身体が硬くて(笑)。

 あらためて、印象に残ったことや質問の意図、研修で得られたことは―。

●石上怜央さん(理学療法士)
 見学する別グループに遭遇した時の平野さんの言葉「“元患者”と言う人がいるが、そんなこと言うのはハンセン病に対してだけ。そういう文言ひとつから訂正してもらいたい」。悲しい現実です。
 疾患を理解し、身体だけでなく心をケアするのもリハビリ。戦争など高齢患者の背景を知り、尊敬の念をもって接したいです。
●北畠直也さん(放射線技師)
 長きにわたり差別された歴史とそれが風化してきている課題、私も考えさせられました。いたって健康な少年だった平野さん。疑わしきは罰するように、官民一体になってハンセン病患者を強制隔離した国の政策は、本当に怖い。
 私は中途入職ですが、小名浜生協病院が大事にする人権尊重の基本に立ち返り、日々奮闘します。
●山口幸人さん(理学療法士)
 ハンセン病だと言われた時や、療養生活、周辺住民や園職員との関係で、抱いてきた気持ちにたくさん触れました。普段から患者さんの気持ちに寄り添いたいと考えているので、質問しました。
 知ることで差別や偏見はなくせる。医療従事者はまず自分がしっかり学び、正しい知識をひろげることもできる存在だと思います。
●野﨑詩菜さん(看護師)
 園内の道を通勤などに利用する周辺住民も多いけど「あいさつする人はめったにいない」。園職員の知識不足に「なんでオレが教えなきゃいけないんだ」。平野さんは一生心に残る傷を負ったんだと感じました。
 医療従事者は本来、患者をケアする立場なのに、心に一生の傷をつける可能性もある。誠意ある接し方を意識して、患者さんと信頼関係を築きたいです。


民医連とハンセン病
 らい予防法違憲国賠訴訟の原告勝訴や、国・原告の和解に際し、民医連は自らのとりくみが不十分であったことを詫び、国民本位の医学医療の発展に最大の努力をすると表明。しかしその際、ハンセン病患者への実質的な強制不妊手術を、問題視できていなかった。全日本民医連は2022年2月、「旧優生保護法下における強制不妊手術問題に対する見解」を発表。気づく機会がありながら、当事者との結びつきの弱さから、民医連が長きにわたり問題を認識しなかった事実を認め、重い責任を自覚し、被害者、関係者に深く謝罪した。

(民医連新聞 第1797号 2024年1月1日)

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