いつでも元気

2008年2月1日

原爆症認定抜本的改善を 広島共立病院院長 青木克明さんに聞く

 

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青木克明さん

 原爆症認定行政の抜本的改善を――。一二月四日、原爆症認定集団訴訟の原告を中心に、被爆者や支援者が一五万羽の折り鶴で厚生労働省を包囲しました。
 各地の集団訴訟で厚労省は相次いで敗訴し、認定基準の見直しを迫られています。現在の認定行政の矛盾について、広島共立病院の青木克明院長に聞きました。

 いま被爆者は約二五万人おられ、平均年齢は七四歳を超えて、多くの方が後障害に苦しんでいます。
 原爆症というのは「原爆の放射線による障害、もしくは治癒能力が放射線の影響を受けている疾患」で、現在治療中の病気をさします。被爆者ががんになったら、自分の病気は原爆のためだと、誰でも思うでしょう。しかし、厚労省はなかなか原爆が原因だと認めません。

「被爆の影響広く認めよ」が判決の流れ

認定被爆者20年間2000人

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 毎年二〇〇人前後が認定されますが、ほぼ同数が亡くなるため原爆症認定被爆者数はずっと約二〇〇〇人。この数は一九八〇年から横ばいで、被爆者の〇・八%に過ぎません。高齢化とともに病人が増加しているにもかかわらず横ばいというのは、あきらかに行政の後退です。
 国は、一つには原爆の影響を大きく見せたくない。久間前防衛大臣が「原爆投下はしょうがない」といったのも、日本はアメリカの核兵器に守ってもらうんだ という考えだからです。もう一つは、認定されると月一三万七四三〇円の医療特別手当が出ます。このお金を出したくない。予算枠を限定しているのです。
 一九八五年までは認定疾患の半分以上が貧血でした。肝臓病、ケロイドなどでも認定されていました。いまはがん以外はほとんど認定されません。
 がんも、疾患別、性別に一四に分類した「原因確率」(病気の発症原因が原爆放射線である割合を確率で示すもの)の表があって、被爆距離から算出された被 曝線量と年齢によって出てくる確率が一〇%以上でないと認定されません。
 広島共立病院では昨年度末まで一三一件の申請をおこない、六五件が認定されています。うち四件は在外被爆者です。性別では男性三九%、女性六六%と差が あります。男性の胃がんや前立腺がんなどは原因確率が低く、女性に多い乳がん、甲状腺がんは原因確率が高いためです。

「最後のたたかい」集団訴訟

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原爆症認定行政の抜本改善を求めて、厚労省を包囲した集団訴訟原告・支援者(07年12月4日、提供=連合通信社)

 「私たちの病気を原爆のためと認めてほしい。今なお私たちを苦しめている核兵器を廃絶してほしい」という願いで、松谷訴訟、東訴訟(注1)な どがたたかわれ、いずれも勝訴しましたが、国は認定制度を改めようとしないばかりか原因確率表による審査で逆に門戸を狭めてきました。そのため「最後のた たかい」として二〇〇三年、集団訴訟に立ち上がったのです。一二月三日現在、二二都道府県で二九八人の被爆者が原告となっています。
 民医連では支援医師団を結成して統一意見書を作成し、「あるべき認定条件」(注2)を示すとともに、原告側証人として法廷にたっています。支援組織つくりや原告の陳述書作成などにも多くの職員がかかわってきています。
 〇六年五月、緒戦の大阪地裁で九人全員が勝訴。入市被爆(被爆一四日目までにおおむね爆心二キロメートル以内の指定区域に入って被爆)、脳梗塞、虚血性 心疾患での認定をみとめる画期的な判決でした。つづく広島地裁でも八月五日に全員勝訴。原水禁世界大会は最高の盛り上がりとなりました。

(注1)原爆症認定申請を却下され、却下取り消しを求めておこした裁判。松谷訴訟は長崎の松谷英子さんが一二年かけ二〇〇〇年に最高裁で勝訴。東訴訟は東京の東数男さんが六年かけ〇五年に東京高裁で勝訴確定。判決目前に死去。

(注2)民医連医師団意見書「あるべき認定条件」 1、原爆放射線による被曝または身体的影響が推定できる。2、悪性腫瘍、中枢神経腫瘍に罹患。3、(1)後嚢下混濁や皮質混濁が認められた白内障。(2) 原爆の後障害が否定できず、要治療状態の心疾患、脳卒中、肝障害、消化器疾患、造血機能障害など他に原因がなく、被曝との因果関係が否定できない場合。 (3)甲状腺機能低下症、慢性甲状腺炎で治療を要する。(4)被爆による外傷の治癒が遅れたことによる運動器障害、異物の残留による障害

 

“3重がんは被曝が原因”同級生調査で証明

原爆症認定集団訴訟・広島原告団
大江賀美子さんの場合

爆心350メートルで1週間救護

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米軍機による被爆直後の航空写真

 大江賀美子さんは、広島の原告四一人の中で最も勝訴が危ぶまれていた一人です。どの判決も原因確率を当てはめる認定基準の誤りを指摘していますが、大江さんの場合で見ても、いかに矛盾に満ちたものか、よくわかります。
 大江さんは一九四五年、三次高等女学校の四年生で、広島県北部の三次市にいました。学校からの呼びかけに応じて二〇〇人の生徒全員が、六〇礰神離れた 「広島に救援に行く決死隊」となり、被爆後一三日目の八月一九日から二五日までの一週間、広島にいました。
 大江さんたち二〇数人は、爆心地から三五〇神の本川国民学校での救護を割り当てられ、倒壊を免れた鉄筋校舎の三階で被爆者とともにむしろの上に寝泊り し、被爆者の体にわいたウジ虫を取ったり、死後の処置をしたりしました。
 一週間後に帰宅すると、下血、脱毛などがおき、頭痛と倦怠感は一年も続きました。明らかな急性放射線障害で、残留放射線による被曝です。
 二〇年後、三七歳(一九六五年)で乳がんになり手術しました。発がんは原爆の影響に違いないと考えた大江さんは娘に遺伝的影響が出るのではないかと恐 れ、注意を怠りませんでした。一九七八年、娘さんが二〇歳のときに頸部にしこりができているのを発見、甲状腺がんと診断され、手術する事態となりました。
 自身は五二歳(一九八〇年)で胃がんの手術を受け、このとき、以前に白血球減少症で認定された同級生にすすめられて原爆症認定申請をしましたが却下され ました。六九歳(一九九七年)で卵巣がんを手術。二〇〇一年、腸閉塞で手術。
 二〇〇二年、再度原爆症認定申請をしましたが再び却下されました。しかし大江さんは、三重がんの発症と娘の甲状腺がんは原爆が原因に違いないと思い、集団訴訟に参加されたのです。

同級生の死因と年齢

死因

年齢

白血病

50歳

白血病

57歳

胃がん

43歳

卵巣がん

47歳

肝臓がん

63歳

肝臓がん*

71歳

すい臓がん

65歳

腸捻転

16歳

急性心不全

61歳

心筋梗塞

75歳

くも膜下出血

70歳

不明

17歳

不明

24歳

*肝臓がんで71歳のとき死亡したKさんが唯一の原爆症認定者(白血球減少症)

被害者相談員が手分けして

 勝訴が危ぶまれていた理由は、国の審査方針では爆心地でも四日後には残留放射線はゼロとなっており、一三日目の入市被爆による発がんを証明するのは困難 と思われたからです。しかし、大江さんの同級生でかつて原爆症認定された人や、白血病で亡くなった人もいることがわかり、原爆被害者相談員一〇人が手分け をして同級生の消息調査をおこなうこととなりました。
 同級生が白血球減少症で認定されたのは一九六八年、当時の認定患者は四〇〇〇人で、認定率は約六〇%でした。
 三次高女の卒業記念写真で大江さんの隣りにいる亀井知恵子さんは、五七歳のときに白血病で亡くなっています。俳句を趣味にされており、自宅には「白血球 測る晩夏の渇きかな」という句碑が建てられています。弟にあたる亀井静香氏(衆議院議員)は「クリスチャンだった姉によく教会の日曜学校に連れて行っても らった。放射線を浴びたために身体の具合が悪いのではないかという恐怖。それを俳句に表現していた」と語っています。

76歳で23人中13人が死亡

 原爆被害者相談員の奮闘によって本川国民学校で一緒だった三次高女の同級生二三人の消息が判明しました。
 一三人がすでになくなっており、七人が悪性疾患(がん)でした。二〇〇五年末(七六歳)での生存者は一〇人で生存率四三%。全国の同年齢者の生存率が八 四%ですから明らかに低い。死因では白血病が二人と一番多く、白血球減少症で原爆症認定された方は、肝臓がんですでに亡くなっていました。一〇代で亡く なった方も二人いました。
 生存者のほとんどが急性放射線障害と思われる症状を経験し、全員健康状態がすぐれないことも判明しました。
 広島地裁判決では大江さんの症状を残留放射線によるものと認め、同級生の健康障害の実態を考慮して、白血球減少症、乳がん、胃がん、卵巣がんを原爆放射線によるものとして、却下処分の取り消しを命じたのです。

核兵器廃絶と世界の平和に

 集団訴訟はその後も、名古屋、仙台、東京、熊本と原告実質勝訴の判決がつづき、対象となる病気の枠も広がっています。国はそのつど控訴をくりかえしていますが、司法の判断の流れはもはや確定しました。
 安倍前首相は八月五日に認定制度の見直しを表明。一二月一九日、与党プロジェクトチームは「原因確率論を改める」とする基準案を出しましたが、被爆距離や入市時期での新たな条件もつけています。
 被爆の実相を明らかにして援護の手を広げさせることは、核兵器廃絶と世界の平和につながることです。被爆状況で区別されることなく、原爆が原因と思われ る深刻な病気が発症した被爆者は、すべて原爆症として認定し、一刻も早く手厚い援護を受けることができるよう、私たちは被爆者とともに運動をつづけていく 必要があります。

いつでも元気 2008.2 No.196

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