いつでも元気

2008年6月1日

元気スペシャル 人殺しの基地は要らない 広がる米軍“基地外基地” 写真家・森住 卓

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ジェーンさんの訴えに涙を流して聞き入る参加者(県民大会)

 ことし二月、沖縄北谷町で起こった米海兵隊員による女子中学生暴行事件。その後も米兵の事件・ 事故が続いている。県民は「もう我慢の限界」「基地撤去、米軍は出ていってもらおう」と声をあげ、「米兵によるあらゆる事件・事故に抗議する県民大会」 (同実行委員会主催)が三月二三日、北谷町で開かれた。横殴りの大粒の雨のなか、六〇〇〇人が駆けつけた。
 主催者としてあいさつした玉寄哲永大会実行委員長(県子ども会育成連絡協議会会長)は「県民が一体となって、この怒りを日米両政府にぶつけよう」と。
 二〇〇二年、神奈川県横須賀市内で米空母キティーホークの乗組員に暴行を受けたジェーンさんも登壇し、「けがは治っても心の傷は死ぬまで続く」「やっと 今日、私は一人ではないという気持ちになりました。手をとり合い、被害者がいなくなるまであきらめないで」と訴えた。話をじっと聞きながらこらえきれず、 すすり泣く参加者の姿もあった。
 沖縄市から参加した仲村盛行さん(75)は「九五年の少女暴行事件の時も県民大会を開き抗議した。あれ以降も、数え切れない事件や事故が起こっている。 いつまで沖縄は犠牲にならなければならないのか」と怒りをあらわにした。

基地ある限り事件はくり返す

街には“ようすがおかしい米兵も”

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県民大会には大雨の中、6000人が駆けつけた

 中学生が連れ去られた現場の沖縄市コザミュージックタウン。大会の翌週には春休み中の中高校生 がおしゃべりしていた。隣には米兵らしきグループ。石川市から来た高校生は「目がつり上がってちょっとおかしいなと思う米兵もいて、怖い」と。「興奮して 騒いだ後、急に黙り込む。酔うと殺気だった目つきに。イラク帰還兵の異常な行動を感じる」という県内基地従業員の証言もある。
 長期化するアメリカの「対テロ戦争」で、米兵の心が病んでいることも事件頻発の背景にある。日本政府や米軍当局が綱紀粛正・再発防止に努力すると何度いっても、むなしく聞こえるだけだ。
 在沖米軍主力の海兵隊は、常に海外に殴り込みをかけられる体制をとっている。躊躇なく人を殺せる心理状況と能力が要求されるため、相手を人間と思わない ようにたたき込まれ、隊員は殺人やレイプに罪悪感を抱かなくなる。平和に安心して暮らしたいという県民の当たり前の願いは、米軍基地撤去以外には実現でき ない。

北谷町の半分が米軍基地

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米兵用の豪華マンション。あるマンション管理会社に問い合わせると、床面積40坪でベッドルーム2つ、バスルームも2つある部屋で、家賃は月30万円前後になるという

 北谷町砂辺地区の砂浜は、夕陽が沈む光景がとても美しい。ここに米兵の入居を予定した大きなマンションの建設が進んでいる。予定では五〇〇戸にもなる。
 砂辺の住民は九〇〇世帯、三〇〇〇人。嘉手納基地の騒音と墜落の危険にさらされている。
 砂辺は太平洋戦争末期、沖縄本島に米軍が上陸した最初の地点だ。沖縄戦で犠牲になった県民は二〇万人。その悲劇はここから始まった。
 現在、北谷町の面積の半分が米軍基地。さらに基地の外に米軍住宅が建設され、“基地外基地”が広がろうとしている。二月の事件の米兵も、基地外に住んでいた。
 松田正二砂辺区長たちは、数年前から「この浜を町民みんなが憩える場所に」と毎年夏、「砂辺まつり」をおこなってきた。しかし米兵が飲んで騒ぎ、治安を 悪化させているという。マンションが完成すれば「米兵に砂浜を独占される。怖くて住民は近寄れなくなる」と。

「基地外基地」の現状訴えて

 「もの言わぬ民は滅びる」と、ことし一月には嘉手納基地からの騒音に抗議する区民集会を開いた。「子や孫のために、声を大にして怒らなくては、将来に禍根を残す」。松田さんは「このままでは住民が事件、事故に巻き込まれる」と基地外基地が広がる現状を訴えている。
 砂辺地区に隣接する宮城地区でも海岸線に面して豪華なマンションが建ち並び、アメリカ西海岸かと錯覚を覚えるほど。駐車する車は、米兵・軍属を表す「Yナンバー」がほとんどだ。
 北谷町が二〇〇六年におこなった調査では、基地外に住む米兵の住宅は四七八棟一二九戸。不動産事務所によれば、「家賃は月三〇万円から五〇万円」。
 「米政府は米兵ひとりに家賃を月五〇万円も出せるのか考えると、(日本が出す)思いやり予算から出ているとしか考えられない」(同町仲村町議)という。米軍再編の中、基地の機能強化と、基地の実質的な膨張が進んでいる。

少女に非はない

自らの被害を語る 富田由美さん(仮名)

 米兵に暴行されても表沙汰にできず、苦しむ人も多い。その一人だった富田由美さんは、九五年の少女暴行事件を機に勇気をふるって証言をはじめた。

genki200_01_04  二四年前、高校二年生だった私はクラブ活動後の帰宅途中、米兵に車から道を尋ねられました。親切に教えると、後ろから二人の米兵がナイフを突きつけ、「I can kill you」といいました。私は殺されると思いました。自宅近くの公園で強姦されました。恐怖で声が出ませんでした。
 事件のことは親にもいえませんでした。事件の後遺症で食事もできず、保健室でブドウ糖を注射してもらって授業を受けました。授業中に過呼吸で倒れ、救急車で運ばれたこともあります。
 レイプされたことを話せなかったので精神科や脳神経外科などをたらい回しにされました。子宮を摘出する悪夢を見たり、妊娠していないか何年も心配したり、結婚しても生まれる子はハーフじゃないかという恐怖に苛まれました。
 高校卒業後、友だちや親から逃げるように内地に働きに出ました。二年後、やり直そうと沖縄に帰ると、事件を知らない親は連れ去られた現場近くに引っ越していました。私は現場から離れたくて県内を転々とし、何度も自殺を考えました。
 九五年、少女暴行事件をテレビで知り、ショックを受けました。「私より小さな子どもが被害を受けた。あの時泣き寝入りせずに訴えていれば、この事件は起こらなかったのに」という自責の念と怒りが湧き起こり、泣き崩れました。そして何か行動しなければと思いました。
 その年の九月に開かれた「少女暴行事件抗議県民大会」の日、私も参加しようと玄関で靴紐を結んでいるとき、涙があふれて止まりませんでした。会場に向か うバスでは涙を見せまいと、ずっとうつむいていました。そのため会場前のバス停を通り越してしまいましたが、バスから外を見ると、会場に向かう車の大渋滞 が起こっていました。「こんなにたくさんの人が気持ちを一つにしている」と勇気づけられ、この日から自分の中で何かが変わってゆきました。
 その後、平和運動に参加するようになり、九六年に韓国で米兵に暴行され殺された女性のことを知りました。彼女はどんなに悔しかったでしょう。声を上げら れなかった女性がたくさんいると知り、「いま生きている私は、彼女らの無念を晴らすために生かされている」と思い、自分のことを公表することにしました。
 今回の事件で米軍はいち早く謝罪しました。福田首相は「再発防止」を他人事のように繰り返しました。本当に少女の痛みを感じているのか疑問です。
 一部のマスコミは「少女にも落ち度がある」ように書き立てました。どれほど被害者の心を傷つけ、悔しい思いをさせているか。許せません。少女に非はない。そのことを一番いいたい。悪いのはレイプをした米兵と基地の存在です。
 基地ある限り、忌まわしい事件はなくならないと思います。基地をなくすためにできることを続けたいと思います。

いつでも元気 2008.6 No.200

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