声明・見解

2008年3月14日

「心理的負荷による精神障害等に係わる業務上外の判断指針」に関する見解

2008年3月
全日本民主医療機関連合会
精神医療委員会

はじめに

 1999年「精神障害等の労災認定に係わる専門検討会報告書」(以下「報告書」)が出され、それに基づいて当時の労働省補償課より同年9月「心理的負荷 による精神障害等に係わる業務上外の判断指針」(以下「判断指針」)が公表された。それにより精神疾患やそれに基づく自殺の労災認定には画期的な変化が生 じ、労災申請件数、認定数ともに、それ以前に比べて大幅に増加した。すなわち1983年4月から1997年12月までの約15年間に71件の「労務による 心理的負荷を原因とする自殺」の申請があり、認定はわずか6件であったが、‘過労自殺’が社会問題化し(34)(35)、「判断指針」作成後の精神障害労 災申請件数は、1999年度155件、以降急激に増加し2006年度の請求件数は819件うち自殺請求176件となった。労働者の保健予防と業務に基づく 被災者の救済の上で、「判断指針」の果たした歴史的役割の大きさは言うまでもないが、精神障害等の認定率(括弧内は自殺事例)は2005年度19.4% (28.6%)、2006年度25%(37.5%)である。増加したとはいっても、未だに低い認定率であり、そのため労災不支給処分取り消しを求めて行政 訴訟に持ち込まれる事例も増えている。現行の判断指針には、改定の必要があるとして、過労死弁護団が2004年11月「精神障害・自殺認定指針の抜本的改 定を求める意見書」を厚労省に提出した。実際各地で起きている行政訴訟では、国側が敗訴する場合が多くなっており、「判断指針」の内容やその運用の問題が 示唆されている。
 「判断指針」はストレス脆弱性理論とライフイベント研究をもとに作成されているが、すでに8年以上が経過し、その後さらに研究と運用の経験が積み重ねら れ、改めて精神医学的観点から再評価とそれに基づく改善が必要であると考える。最近の学術誌でも特集が組まれ、その中で労災や「判断指針」の問題が指摘さ れている(1)。我々全日本民主医療機関連合会精神医療委員会は、働く人たちのメンタルヘルスの保持・増進に寄与するために、「判断指針」改善のための見 解を述べる。

2、「判断指針」改善点の要旨

  1. 現行「判断指針」は「慢性ストレス」に対する評価が不十分であり、「急性ストレス」が評価の中心となっている。うつ病罹患には慢性ストレスの関与がきわめ て重要であることから、「判断指針」に明確に記載し、‘判断要件’の項目に取り上げるべきである。
  2. 現行「判断指針」は‘対象疾病の発病前おおむね6ヶ月の間に’と、遡る期間を6ヶ月としている。しかし日常的で過重な労働ストレスである「慢性ストレス」を評価しやすくするため、心理的出来事の評価を概ね1年前まで遡って考察できるようにすべきである。
  3. 「慢性ストレス」評価に関連し、近年の研究成果を生かし、ハラスメントを始めとする内容を心理的負荷表の項目に追加すべきである。「判断指針」では、‘心 理的負荷の強度を修正する視点’や‘出来事に伴う変化等を検討する視点’によって、「急性ストレス」の慢性的な影響を評価するようであるが(2)(6)、 「慢性ストレス」の重要性に比して、評価の仕方が曖昧である。また負荷表の機械的な当てはめを防ぐために、修正する視点では、IがIIIにも修正ありうる ことなど柔軟性が必要なことを明記する必要がある。また心理的負荷の出来事が複数ある場合、それらが相乗的、相加的に作用して発病につながることがあると 考えることが臨床上も一般であり、総合的な負荷強度の判断に生かされるべきである。
  4. 長時間の時間外労働が精神障害の発症に、関与することが研究上あきらかであり、特に発症前1ヶ月間の時間外労働100時間を越える場合は精神障害の発生の危険が高くなることについて明記が必要である。
  5. 現行の「判断指針」では「発病後」の心理的負荷については、まったく考慮されていない。発病後にその障害ゆえ認知に変化が生じる可能性は高いが、すべてが 認知の歪みのためではない。症状の増悪が、業務上の心理的負荷による可能性のあることも明らかであり、検討の対象とすべきである。
  6. 現段階では、労災認定にストレス脆弱性理論を採用するにしても、この理論もまだまだ限界があり、さらなる研究と理論の発展が必要である。この理論の2軸の 一つであるストレス強度について、その客観的評価は一定程度可能としても、そのことで精神障害の予測をすることは多くは困難であり、実際はきわめて個人差 が大きい。さらにもう一方の軸である個人の脆弱性にいたっては、もとより性格だけでは決められず客観的に数値化することが現時点では困難であり、また変動 する。「判断指針」は現段階では、科学的証明には限界があり、こうした限界を考慮し個人に即した業務関連性を評価し柔軟に運用することを明記すべきであ る。

3、改善点提案の説明

1)慢性ストレスがうつ病発病と関連性が深いという指摘は枚挙にいとまがなく、その実験的研究も臨床的研究も多数あり、原田氏の言葉を借りれば‘精神医学 の常識’である(3)(10)(33)。そのことはさらに日本産業精神保健学会の「平成18年度委託研究」のうち、産業医と精神科医対象の‘出来事と精神 障害発症の因果関係に関する調査報告’の中で(4)、「労働者が日常の労働生活により受けるストレスの評価についてどう考えますか?」という問いがあり、 精神科医を対象にした場合「日常の些細なストレス継続した上である出来事を契機に発症した場合、出来事単独よりも重視すべき」との回答34.7%、「日常 ストレスがある一定期間、持続した場合に認めるべき」の回答42.1%、両方で76.8%も日常の些細なストレスもストレス評価すべきであると答えてい る。また別の質問でも精神科医は慢性ストレスと極度の長時間労働を労災認定上、ほぼ同等に認めている。
 「判断指針」についても、以前から検討会の座長でもあった原田氏が、検討会で取り上げたストレスは急性、1回性のストレスが多く、慢性ストレス評価が残された問題として指摘している(5)。
 そもそも職場のメンタルへルスで代表的なモデルであり、「判断指針」に採用されている米国国立労働安全衛生研究所NIOSHの職業性ストレスモデルにお いて、また有名なKarasekらの要求裁量支援モデルでも、Sigeristらの努力報酬不均衡モデルにしても、慢性ストレスが取り上げられており、こ うしたモデルに基づいて、メンタルへルス不全の発生を説明することは、職場のメンタルへルスに従事するものにとっては、常識的な事柄である。したがって、 「判断指針」の運用において、こうしたモデルを念頭において多少修正する視点をいれていたとしても(6)、慢性ストレスについて、明確化が少ないことは、 まったく不備であると言ってよいと思われる。
 ライフイベント研究においては、慢性ストレッサーを「環境からの持続的で反復的ないつ終わるとも知れない要請であって、その要請が生起した時期を明確に 同定することが出来ない」とし、ライフイベントを「第3者からも観察可能な事象であって、その事象の生起から終結までの時間経過が極めて短く、しかも生起 と終結は明確に同定することが出来る」と定義している(8)。そのためライフイベント研究においては、「慢性ストレス」の評価は非常に難しく、しばしば調 査項目としては除外されている。「平成18年度委託研究」においては、「仕事が忙しすぎる」「自分の能力が正当に評価されていない」など4項目の慢性スト レッサーが調査され、いずれも高いストレス強度を示していた(8)。精神疾患の成因としてのストレスについて、その評価の難しさはあるが(12)、現行の 「判断指針」がNIOSHのストレスモデルやストレス脆弱性理論を採用している以上、これまでの疫学的研究(10)(11)を生かして慢性ストレスの評価 の必要を明確に記載すべきである。

2)発病前に遡る期間として、おおむね6ヶ月という理由は、多くのライフイベント研究で、こ の期間以内であれば、出来事の記憶の確からしさが担保されるということのようである(6)(13)。しかし1年を調査期間としたライフイベント研究もまれ ではない(11)(21)(23)(37)。DSM-IV-TRでも、第4軸「心理社会的および環境的問題」で、‘今行っている評価の前1年間に存在した 心理社会的及び環境の問題を記しておくべきである’と、発病者のストレス因子などの評価に発病前1年間を対象としている(38)。したがって出来事が客観 的に示しえるなら1年間遡ってもいいはずである。また急性ストレスは、精神医学的には急性ストレス反応や心的外傷後ストレス障害PTSD研究につながるも のであるが、こうした疾患とうつ病を発症させる時に重視される慢性ストレスと同じとは言えない。慢性ストレスは「いつ始まったか明確にできない」という特 徴もあり、慢性ストレスの長期持続性を考慮に入れるためには最低1年間は調査期間として採用すべきである。永田氏も発症後に悪化して自殺した事例の場合で あるが、自殺から逆算し6ヶ月から12ヶ月くらいまでの業務による心理的負荷について検討すべきではないかと述べている(14)。また原田氏も「6ヶ月な いし1年間を問題にすることが普通である」と述べている。学会の「見解」では、過労死弁護団「意見書」の‘評価期間をおおむね1年間を提案する’という要 求に対して、‘厳密に半年とは限定していないのであって、事例の状況に合わせて遡って柔軟に対応すべきである’としながら‘おおむね6ヶ月とすることが妥 当である’としている(13)。しかし「判断指針」の解説では‘精神障害の発病時期の推定も一程度幅があることは否めないことから、その評価期間の設定に あたってはそのことを含めて考慮される必要がある’と、発病時期の曖昧さと絡めて述べてあるのであって、イベントの発生を1年前まで柔軟に遡れる説明と なっていない(6)。実際運用では、この‘6ヶ月’が機械的に適用されている事例も耳にし、そのことが過労死弁護団の要求にも現われたものと思われる。以 上を考えると、遡ることが可能な期間1年間と明示することが大切なことであると考えられる。

3)「厚労省労働災害科学研究平成14年委託研究」15年3月報告‘ストレス評価表の充実強 化に関する研究’(8)において、職場関連ストレッサーの中で健常者群のストレス強度は「嫌がらせ、いじめ、または暴行を受けた」が最も強いストレッ サー、ほかに「転職に失敗した」「違法行為を強要された」「業務を一人で担当することになった」が強度、と示している。さらに「平成18年度委託研究報告 書」’精神障害を引き起こすストレス調査に関する研究‘(15)においては、やはり現在の心理負荷表にない項目を調査し、強いストレスと評価されたものは 「会社が倒産した」6.5点に次いで、「上司から強度の叱責を受けた」6.2点、「職場で嫌がらせ、いじめを受けた」6.1点であった。さらに「職場で暴 行を受けた」5.9点、「納得のいかない人事査定を受けた」5.8点、「自分の関係する仕事で多額の損失を出した」5.8点、「仕事が忙しすぎる」5.7 点、「顧客や取引先から無理な注文を受けた」5.7点、「仕事をする上で、職場の協力体制が悪い」5.6点、「自分が長い間担当していた仕事が廃止され た」5.6点であった。職場の対人関係やハラスメントの項目が上位にある。これらの項目は、調査の目的としては、慢性ストレッサーに含まれているものもあ るし、ないものもあるが、どちらも慢性的日常的にもなりうるものである。
 山本氏も職場における継続的反復的なハラスメントによるストレスに言及し、‘このようなケ-スは現在の労災の判断基準では適合しないが、これがきちんと 評価される基準ができることが期待される’と述べている(16)。裁判でも「上司の強い叱責」に属すると思われる‘単なる厳しい指導の範疇を超えた、いわ ゆるパワーハラスメント’の影響が評価されてきているが(36)、評価表をさらに充実させ、出来る限り分かりやすくするべきである。

4)長時間の時間外労働の精神疾患や自殺の発生への関与についても、様々な研究があるのは周 知であろう(18)(19)(20)(39)。睡眠とうつ病の研究から、睡眠不足がうつ病発病に関連することが知られている。労働現場においては、長時間 労働が睡眠不足を引き起こし、それがうつ病発症に関連する研究が多い。睡眠不足のない程度の時間外労働が、うつ病発症につながるかについては、賛否があ り、長時間労働と自殺との事実的因果関係の証明は疫学的には不十分というべきである、という見解もある(19)。しかし夏目氏は、長時間労働との関連で平 均60時間以上の残業となるとライフイベントの合計点数が極めて高くなる(ストレス度が強くなる)ことを指摘し、対応として‘職場巡視から改善方法を検討 し、長時間労働をなくすように努力する。超過勤務は45時間以下にするように努める’など述べている(17)。
 特に日本産業精神保健学会でまとめた「精神疾患発症と長時間残業との因果関係に関する研究」(平成15年度委託研究)で、いくつかの研究から「長時間残 業による睡眠不足が精神疾患発症に関連があることは疑う余地もなく、特に長時間残業が100時間を越えるとそれ以下の長時間残業よりも精神疾患発症が早ま るとの結論が得られた」と述べている。
 「判断指針」では、恒常的な長時間労働が認められる場合、心理的負荷の強度を修正することになっているが、脳心疾患のような具体的な目安が記されていな い。同学会の「見解」では、この研究にふれながら、「判断指針」の修正に触れていないが(13)、明らかなのであるから、脳心疾患の労災基準のように、 100時間を越える場合の過重性について、明記すべきであると考える。永田氏も、脳心疾患の労災認定基準を引用しながら、時間についておおよその基準は あったほうが良いと述べている(14)。またそれ以下の時間においても、ストレス強度は高くなりやすいのであるから、引き続き心理的負荷を修正する視点に よって、労働の内容含め充分に考慮されるべきである。

5)「判断指針」では、「発病後」の増悪について、対象外としている。学会「見解」では (13)、過労死弁護団の意見書に反論する形で、‘周囲にきづかれることなく業務に従事していたからといって必ずしも軽症うつ病であるとは診断できないこ と’‘軽症うつ病には自殺念慮が生じず、また、中等症、重症うつ病に進むに従って自殺念慮が生じ、自殺率が高まるという医学的知見は存在しないし、必ずし も意見書の見解の精神障害の「増悪」の結果自殺に至るというものではないことを確認しないといけない’‘自殺企図に至る事例が、全て病態が重症というわけ ではないことを確認しておく必要がある’などを踏まえ、病気の増悪と自殺の関係について、‘意見書の精神障害者の自殺が精神障害の増悪の結果であるという 見解は、精神医学上、必ずしも正しくない’など結論づけている。確かに未治療のまま直前まで仕事を続け、日常的な会話も出来ていたのに、業務起因性自殺を 遂げた事例もある。そうした事例の重症度はどうであるかなど問題である。しかし、これはうつ病が増悪し自殺に至る可能性を否定するものではない。実際に増 悪すなわちうつ病の絶望感や孤立感が強まり、自分の心的世界だけとなって、現実の認知がさらにゆがみ、自殺にいたるという事例も、臨床的にはしばしばある のであり、うつ病の自然経過のみで重症化し、自殺してしまうわけではない。周りの関与(すなわちストレス)は重症化には関係ないとすれば、我々は職業上や 家庭上の周りの対応を含む療養指導の必要性はないわけであるが、こうした対応の重要性を否定する臨床家はいない。もちろん発症後の増悪や自殺に対するスト レスの因果的効果をあきらかにした研究もいくつか存在している。これらの研究では、ライフイベントを始めたとしたストレス要因といった環境要因の方が、そ れらの負荷の少ない場合よりも、増悪も自殺念慮・企図に因果的に影響していた(22)(23)(24)。永田氏も‘さらに重要なことであるが、精神障害が 発病する前の6ヶ月間の業務による心理的負荷は考慮されるが、発症後のことに関する記載がないため、発症後にさらに過重な負荷が重なって自殺に至った事例 でも労災と認定されないケースがでる可能性がある’とその問題点を指摘している(14)。さらに桂川氏は、うつ病発病後に増悪し労災申請を行った事例を取 り上げ、その総合判断の中で、‘それでも、うつ病の診断がなされた後に、当該精神障害を増悪させるおそれのある業務による強い心理的負荷があったことはあ きらかであることから、経過中に強度の心理的負荷が認められる精神障害について業務起因性を認めないとする見解は一考を要すると思われる’と指摘している (25)。発症後では、心理的負荷の影響の程度を、病気による認知の歪みの影響など考慮にいれる必要はあるが、職業上のストレッサーの関与の検討を除外す べきではない。労災補償は、業務によって不幸にして障害を負ったり、命を失くしたりした労働者の救済であるわけだから、可能性のあるものを検討から排除す べきでない。

6)ストレス脆弱性仮説は、精神疾患の再発予防を課題とした臨床における心理教育的な接近を 可能とする指針であるとともに、精神疾患の発症や再発を生物学的に研究する時の作業仮説となり、ストレッサーと脆弱性の研究を進める軸となっている。非常 に有用な仮説であるが、これまでその問題や限界も指摘されてきた。特に一人ひとりの病気の発生をどこまで説明できるかについては、大まかな枠組みを与える だけであり、結局個別によく検討が必要である。特に初発の事例にどこまで適用可能かが難しい。またストレッサーやストレス度合いの測定がどの程度可能なの かどうか。ライフイベント研究は心理社会的ストレス強度の測定として、公衆衛生的に集団対応を考える場合に大いに参考にはなるが、研究方法としての課題と ともに、ストレス調査の平均的な得点から個人の発症を説明するには、個人差が非常に大きくそれだけで説明することはほとんど困難である(26)(27) (例外的なのは、大災害時などの急性ストレス反応やPTSDの場合であるが、それさえ‘同じ’―これも厳密に‘同じ’と評価するのはかなり困難だろうがー ストレッサーを受けた人でも圧倒的に多くは発症しない)。ましてや大災害や大事件のような破局的でない慢性のストレスの場合のみでは、その一般的に理論化 した形で発症の因果的説明は困難である。少なくない過労自殺例が、ぎりぎりまで仕事を続け表面的には「大丈夫」な言動を示しながら不幸な結果に至っている (39)。臨床でも、「ストレスを感じない」すなわち自分の状態を否認する人ほど要注意ということがある。すなわちストレス強度を主観的に得点化したもの が、否認の強い重症の精神疾患を説明するには、役立たないことが充分に考えられる。そこでこの理論では、もう一方の軸である脆弱性を組み合わせて発症を理 解するわけであるが、脆弱性研究は神経生理学的、神経内分泌学的、遺伝学的に研究が進み様々な仮説や知見(28)(29)が出てきているとはいっても、日 常的に各人の脆弱性を評価することは困難である。しかもこの2軸は、まったく独立しているとは言えない。脆弱性に影響する遺伝子レベルにおいてもまったく 決定されたものではなく、環境によって変化しうることや、通常は脆弱性の一つと考えられる性格なども、環境すなわち心理社会的ストレスによって変化しうる などの相互作用があることが知られている(30)。あるライフイベントを引き起こす遺伝的要因(イベント傾性)さえ言われることもある(26)。単純にそ れぞれを測定して足したり掛けたりするようには出来ないのである。同時にこの2軸だけで発症を説明してよいのかという問題がある。業務上ストレスが発症を 招くほど充分に強くなければ、発症は個人の脆弱性による、と引き算のように結論を出すことは、非常に乱暴な論理といわざるをえない。原田氏によれば、「報 告書」で取り上げた(すなわち「判断指針」に採用された)ストレス脆弱性理論は、もともと本来のZubinが統合失調症について展開したストレス脆弱性理 論(31)ではなく、身体疾患の場合と同様に、病気の成り立ちを考える時の一般的常識的なものである(5)。さらに氏はストレス評価表について‘筆者とし ては、あくまで参考指標であって、(中略)しかし他にさらに良い評価研究がないので、何もないより役に立とうと考えた’と述べている(33)。それを出来 るだけ、客観性のあるものにしてゆくことは当然であるが、特にストレス性に発病する場合を、普遍化して説明する上での現段階の到達は不十分と言わざるを得 ず(疫学的に影響の度合いを割合で示すことはできても)、裁判(32)でも指摘されているが、臨床家からみても、「判断指針」はあくまでも労災認定の参考 資料に留まるべきである。

4、おわりに

 労災問題は、被災者とその家族だけの問題ではなく、その予防を通じてすべての労働者とその家族のメンタルヘルスに影響する問題である。「判断指針」が作 成されて以来、訴訟をさける企業のリスク管理の一つという側面もあるが、産業精神衛生活動が広がってきており、「判断指針」はメンタルヘルス活動の推進力 となっている感もある。したがって、さらにメンタルヘルス活動を進めるためにも、「判断指針」がより充実したものになることを期待する。


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