いつでも元気

2009年4月1日

元気ネットワーク 路上生活者放っとかない 青年職員たちが始めた静岡「東パトの会」

  住む家を失い、路上生活に陥っている人たちの姿は、どこでも珍しくなくなりました。「気になる。けれど、どう声をかけていいの か…」こんな経験はありませんか? そんな中、路上生活者の支援活動を地域の人たちとはじめた仲間たちがいます。静岡東部パトロールの会(東パトの会)で す。一月二七日の夜回り活動を三島共立病院で取材しました。

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車中生活者に声をかける。左から、佐藤さん、藤田大也医師、鈴木さん

 午後六時すぎ。仕事を終えた職員や、地域の人たち二〇人近くが病院前の保険薬局二階に集まって きました。東部パトロールの会が月一回設けている活動日です。前月の夜回りで接触した人たちの状況や支援の進み具合などを交流し、生活保護制度を学ぶ時間 をとってから、七時過ぎに駅・公園・海岸の三方に散りました。
 記者は廃車で生活している人たちが多いという隣町・沼津市の海岸コースへ。共立クリニックの茅野真理子さんと友の会の後藤とし子さん、司法書士研修生・宮内さんが一緒です。
 堤防ぎわで車を降りると、後藤さんと茅野さんの女性二人は真っ暗な防砂林沿いを、懐中電灯ひとつでどんどん奥へ。「すごいね」と、夜回り初参加の宮内さ んが。この一帯は男性でも一人で行くには勇気がいるという寂しい所です。松の木の下に身を寄せるように、走りそうにない自動車が数台止まっていました。そ の窓をノックしていきます。
 一台めは反応がなく「お留守かな」。次の車は無人、パトロールの支援で住人が生活保護をとり、車中生活から脱したのです。次は…「三島共立病院です」の 呼びかけで、しんとしていた車内から「はい」と応答があり、小さな灯りがともってドアが開きました。

おにぎりとテレホンカードと

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堤防ぎわの小屋を訪れ、住人と話をする。懐中電灯の明かりをたよりに(筆者撮影)

 顔をのぞかせたのは六〇代の男性でした。「困ったことは?」ときくと「全部だね」と、返ってきました。寒さ、体の具合、収入源にしている空き缶の引き取り価格が下がって、「最近は一〇㎏集めても四〇〇円にならない。五〇〇円稼ぐのもたいへんで、食べられないよ」。
 メンバーは、生活保護を利用する意思がご本人にあるなら、応援できると伝え、おにぎりなどの食料と会発行の『路上通信』、連絡用のテレホンカードなどを 手渡しました。前月よりもずいぶん話をしてくれた、生活がかなり厳しくなっているのだと思う、と茅野さん。
 さらに林の奥に、ベニヤ板でつくったらしい、肩の高さほどの小屋が。声をかけると、腰をかがめて男性が出てきました。しゃがんだまま会話が始まります。 長年勤めた運送会社を数年前に解雇されてからこの暮らしだ。仕事は屑鉄集め、一年前は㎏一四〇円だった売値が三五円に落ち、一日の収入は最高で約九〇〇 円。先週は雨の中を回収にまわったら熱が出て、何日も震えながら寝ていたよ、と。所持金は六〇〇円でした。
 この半年で、同じような境遇の人たちが生活保護を申請し、畳の上で再出発を始めていることを私たちから聞くと、やってみる気になりました。さっそく翌日 市役所で待ち合わせ、宮内さんと病院ソーシャルワーカー(SW)の佐藤永さんが同行申請する運びに。この話を進めたのは二〇代の事務職員の茅野さんでし た。
 合間に携帯電話が鳴りました。別のチームから「この間、援助を求めてきていた路上生活者と会えた、救える!」という報告でした。目の前でみせられた皆のがんばりに、寒さを忘れていました。

きっかけに2つの出来事

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生活の場になっている車の中

 パトロールは〇八年夏から始まりました。二つの出来事がきっかけです。
 ひとつは「浜松事件」です。〇七年末の浜松市、体調の悪いホームレス女性が発見されました。救急車が呼ばれたものの、行き先は病院ではなく浜松市役所で した。市職員らが囲んで見ているなか、庁舎外の路面に横たえられた女性は心肺停止状態に。偶然通りかかったボランティアが通報し病院に救急搬送しました が、その日のうちに亡くなりました。もうひとつは、三島共立病院に凍傷になった路上生活者が運び込まれたり、せっかく路上生活を脱した人が孤独死するとい う残念な事件が続いたことです。
 三島市は県東部に位置していますが、中部や西部と違い、公の自立支援センターも、民間の支援組織もない地域でした。住居も満足な食べ物もなく、過酷な環 境で放置されている人たちに、医療ができることは大きい。生活再建の手助けも、地域の力を借りてできないだろうか? 県内の「反貧困ネットワーク」に参加 し、他の地域でのとりくみを知った若手SWの佐藤さんは考えました。共立クリニックの鈴木弘二事務長もベテランSWとして、一緒に準備にかかりました。
 ゼロからのスタート。佐藤さんは数人の職員とともに静岡市での夜回りに同行し、ノウハウを学びました。呼びかけ文も書きました。職場や地域から二〇人近 くがこれにこたえ、物資や資金カンパはもっと多くの人から集まってきました。
 「きずな」という支援活動ニュースも出し、随時、職員への情報提供や協力の呼びかけをしています。

“助ける側も元気出る”

救われた人たちのこと

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公園の公衆トイレで寝ている人もいる

 七月から一月までの約半年間で、一〇人の路上生活者の再起を手伝いました。
 住所不定の人は、生活保護が受けられません、という対応を行政はしがちですが、それは間違い。〇八年三月には厚生労働省から「窮迫した人には迅速に対応を」という内容の通知も出ています。
 会ではその通知を窓口で示しながら、申請に同行。法律のプロ・司法書士さんたちの協力も大きな力です。
 身寄りのない人の入居先探しは簡単ではありませんが、理解ある不動産業者や大家さんを見つけました。保護申請から決定が下りるまでの二週間、職員などから寄せられた食料でつなぎます。

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食料と、連絡先などを書いた「路上通信」とテレホンカードを配る。寝ぐらにしている気配のある留守の段ボールの上にも

 Aさんはそうして救われた一人でした。失業してから、路上生活と刑務所を三度往復しています。 罪状はすべて窃盗、それも食べ物です。空腹のあまり盗んで捕まり、刑務所を出ても住まいも仕事もなく、また食べ物を盗むという悪循環。三度目の出所後は、 窮迫保護所に駆け込みましたが、Aさんへの「支援」は、乾パンとレジャーシート一枚、職員のおやつだったらしい和菓子四個と、隣町の三島までの電車賃二〇 〇円だけ。夜を明かそうと駅前を歩き回っていたのが、運よくパトロールの日でした。「大丈夫か?」と、鈴木さんが声をかけたのです。
 「身なりはきれいでしたが、Aさんの靴がひどく汚れていて、もしや…と、思いました。ハローワークにいっても、住所不定では職がない、職がなければ収入 もない、食えなくてあんパン一つ盗んで捕まる。Aさんのような悪循環に陥っている人は少なくないんです。生活を保障してそんな循環を断ち切って、もういち ど納税者になってもらう方が、よほどいいじゃないですか」と鈴木さん。
 また、八〇代のBさんは、年末に道端でうずくまっているところを、帰宅途中の矢部洋院長が発見、その場で診察して翌日、入院に。土木作業の仕事を何十年 もしてきましたが、年金をかける余裕はありませんでした。年をとって仕事が減り、家賃が払えないので橋の下に小屋をたてて暮らすようになっていました。
 「先生が声をかけてくれなかったらどうなっていたか…」退院して、この日初めて夜回りに参加しました。

多様なメンバーが集まる

 メンバーの顔ぶれは多様です。職員や友の会員のほか、お坊さんや公務員、教員、地方議員に司法書士など。Bさんのように、会の活動で助けられた元路上生活者も、助ける側に加わっています。
 友の会員の後藤さんは二回目から夜回りに参加しています。「息子も派遣です。クビにされて住むところを失った人のニュースが人ごととは思えなくて。路上 生活者を目にするたび、豊かな国でなぜ?と思ってきました。でも、どうしていいかわからなかった」と。友人・知人に「会」の話をすると、協力者がつぎつぎ 現れました。路上生活者の居場所を見つけて知らせてくれたり、声をかけ、会の連絡先を伝えていてくれたり…この夜、後藤さんが抱えてきたお米や佃煮もそん な知人たちの差し入れでした。活動を通じて励まされることが多いのです。
 「そしてなにより、若い職員さんたちが一生懸命で、元気になる」

がんばる青年職員

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出発前のおにぎりづくり。もと路上生活者のアドバイスでこれは欠かさない

 確かに目立つ若者の姿。そのうちの一人が茅野さん。「夜回りに参加したい」と手を挙げて「こんな若い女性が?」と、鈴木事務長を驚かせました。
 「民医連で働き始めるまで路上生活者の存在に疑問は感じていませんでした。でも、患者さんたちと接するうちに、もっと何かしたいと思うようになりまし た。路上生活者についても、なぜそうなったの? 希望はないのか? 考えるようになって」と茅野さん。
 「何度か足を運ぶうちに顔を覚えてもらい、『また来たか』と、言葉は乱暴だけど、笑顔で迎えられます。身の上をきくと、失業や離婚、私に起きてもおかし くないことが路上生活のきっかけになった人も少なくない。その時支える人がいれば、ここまでならなかった…と思います。だからいま、手助けしたいんです」
 楽しい? とたずねると「楽しい!」と大きな声で。「この前、支援して再出発をした人が『がんばるよ』といってくれました。私も元気が出た。人の痛みがもっとわかるようになりたい」

いつでも元気 2009.4 No.210

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