いつでも元気

2009年12月1日

“壁”が消えて20年 ベルリンはいま…

山本耕二(写真家)

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■ベルリンの壁  ベルリンは西ドイツとは完全に離れ、全域が東ドイツの中にある。旧ドイツの首都だったため、第2次大戦後も特別な地域として連合軍の支配下に置かれた。ド イツ分断時、市も東西に分断され、ドイツが統一するまで、西半分(西ベルリン)は米英仏3カ国の、東半分(東ベルリン)はソ連の管理下に置かれた。壁は、 ベルリン市西半分をぐるっと取り囲む形で建設されていた。上図の点線がかつての国境ライン。

 ちょうど二〇年前の一一月、突然「ベルリンの壁」がなくなった。直前まで、誰が予測できただろうか。
 壁崩壊のきっかけとなったのは、八九年一一月九日、「東ドイツ市民の旅行を自由化する(実際は許可書の大幅規制緩和だった)」という誤発表だった。驚喜 した市民が検問所に押しかけた。何の指令も受けなかった国境警備隊は、群衆におされてゲートを開け、歓喜の渦のなか、翌日になって壁の破壊が始まったの だ。
 一九八〇年代後半、東欧諸国では民主化運動が広がっていた。東ドイツでも、一触即発の勢いだったのだろう。政府は手も足も出せなかった。東西ドイツの国境に張られていた有刺鉄線も撤去され、国境も開放された。
 当時フランスにいた私は、すぐにベルリンに飛んだ。「壁」という閉塞感を押しやった人々の顔は、長い間待った「自由」を手にし、希望にあふれていた。

ナチス時代の負の遺産も伝承

 検問所を通って東・西ベルリンの間を自由に行き来できるようになると、東の市民は西ベルリンに大挙してくり出して行ったが、物価の高い西側では何でも手に入るというわけではなかった。
 東側には輸入されていなかったバナナが物珍しく、多くの東側の市民が買い求めた。コール首相は「統一されればバナナは毎日食べられる。西側の物は何でも自由に手に入る」と語りかけ、西側メディアも「統一」ブームを作り出していた。

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国会議事堂の屋上のドーム展望台

 ベルリンが再び統一ドイツの首都として復活すると、中心地ポツダム・プラッツは、建設ラッシュにわき、商業ビルが巨大な姿を現した。ベルリンの象徴とも いえるブランデンブルグ門。その北側にたつ国会議事堂の屋上に、ガラス張りの展望台が設けられ、終日見物客が列をつくっている。中央駅も首相府も、近代的 な装いとなった。
 見違えるように変貌をとげつつあるベルリンだが、ナチス時代の負の遺産は、しっかりと伝承されている。
 最も大きなシンボルは、二〇〇五年に一般公開された「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑」だ。ブランデンブルグ門の南側、二重に造られてい た壁を撤去した後の敷地二万平方メートルに、二七一一基の四角形の黒い石が置かれている。その迫力は不気味でさえある。ナチスの国家秘密警察(ゲシュタ ポ)本部跡の展示場も訪れる人が後を絶たない。

観光資源となった「壁」が

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ポツダム広場にできた新しいビル。手前に壁を展示している

 観光客が集まるブランデンブルグ門の前では、旧ソ連兵や旧東独兵の軍服を着た若者が、観光客と一緒に写真に収まってお金を稼いでいる。
 また「壁」に描かれた絵が評判となり、イーストサイド・ギャラリーと呼ばれて名所になったところもある。「壁」はベルリンの観光資源になっているのだ。
 ベルナウアー通りは、外壁を「壁」に使っていたビルがあったため窓から飛び降りて西に脱出する人が多かった。この通りにある壁博物館の前に、一〇〇メートルほどの「壁」が保存されている。
 通りに沿って二、三分歩くと、すでに撤去された壁の東側に建つアパートの庭で、「子どもたちから太陽を奪わないで」と書いた看板を掲げ、遊び場を作って いる人たちがいた。何のことかとたずねると、高い壁が撤去されてやっと太陽があたるようになったのに、再び壁を復元して、壁博物館まで延長する計画が進め られているのだそうだ。市民生活を犠牲にしてまで、壁がまた必要なのだろうか。

 

年金は西の3分の2程度

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ゲシュタポ本部跡の展示場

 統一されると、東側の医師や研究者は、西側の企業から高給で迎えられた。二〇年前、壁の周辺を案内してくれたアレキサンダーさんは、優秀な成績で大学を卒業し、西側企業のブレーメン市の支店長になっている。西側社会で成功している典型例でもある。
 高学歴の青年層は貴重な労働力として西側企業に受け入れられたが、とくに資格のない青年や、中高年の人々は、簡単には西側企業に採用されることはなかっ た。採用される場合でも、西側の出身者より二割ほど低い賃金が一般的で、年金の受給もやはり同じように格差があり、三分の二程度である。
 旧東ドイツの企業には、技術革新の遅れや設備の老朽化など、西側との競争に耐えられる工業施設は多くなかった。また公害は、社会主義国家には存在しない ことになっていたが、現実には工場汚水や煙害に苦しむ地域は存在していた。そうした環境下で、統一とともに多くの企業が倒産に追い込まれた。
 そうして失業したシュミデルさんは、三年後に西側企業に就職できたが、西側出身者の六六%の給料しかもらえなかった。年金生活の現在は、市から家庭菜園を借り、野菜や果物を作っている。

格差残るが手厚い失業者対策

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キャンバスとなった壁が名所に(イーストサイド・ギャラリー)

 旧東側のアレキサンダー・プラッツ駅の前で開かれていた演説集会で聴衆のようすを撮っていたとき、「あなたは日本人か」と車いすの男性に呼び止められ た。五〇歳くらいのその男性は、「足のけがで職を失い、現在失業中だ。仕事もできず病院の支払いにも困っている。これが今のドイツの現実なのだ。なんとし ても福祉の充実を期待できる政党に躍進してもらいたい」と熱っぽく語っていた。
 壁が崩壊した時期に、西側の経済力と東側の福祉制度が一緒になったらすばらしい国になるという期待の声は、東側からだけでなく、西側からも聞こえてき た。統一の過程は、西側主導、資本の力によってあまりにも急速に進み、東西に大きななひずみを残した。東側の失業率は西側の倍の一三%にのぼる。
 それでも失業者対策はかなり手厚く、派遣労働者であっても、日本のように「職を失ったとたんに住まいもなくす」というような、無権利状態はないという。

福祉・環境を重視する政党が

 九月末にドイツでも総選挙がおこなわれた。保守系のキリスト教民主同盟(CDU)と大連立を組んで、政権の一翼を担っていた中道左派の社会民主党 (SPD)は、結党以来の最大の敗北を喫した。CDUの政策に引きずられ、福祉予算のカットや雇用法の改悪に同意してきたためだ。CDUは辛うじて現状を 維持し、SPDは一人負けのありさまだ。
 票の一部は保守系にも流れたが、多くの票は左翼党や緑の党など、福祉や環境を重視する政党に集まった。
 分断国家の傷は深い。念願だった「統一」から二〇年。一日も早く東西市民の公正な社会が実現するよう願っている。

いつでも元気 2009.12 No.218

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