いつでも元気

2010年7月1日

核兵器のない世界へ! ニューヨークに世界から1万人集う

滋賀・坂本民主診療所所長 今村 浩

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署名行動をおこなう長崎民医連の仲間。被爆地の思いは海をこえて伝わった(5月2日、タイムズスクエア)

 五年に一度の核不拡散条約(NPT)再検討会議が五月三日~二八日、ニューヨークの国連本部で開かれました。昨年四月、アメリカのオバマ大統領が「核なき世界を目指す」と演説し、世界中に注目されて以来、初めて開かれた再検討会議。
 世界中のほとんどの国々の政府代表が参加する再検討会議にあわせて五月二日、ニューヨークに世界中の市民が集い、反核大集会が開かれました。
 「一部の保有国が核兵器を独占する“核不拡散”ではなく、核兵器のない世界を」と集まった人たち。滋賀民医連副会長で坂本民主診療所所長の今村浩医師のレポートです。

 

目を引いたムシロ旗

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街の反応も上々、滋賀民医連のムシロ旗(写真:筆者提供。5月2日、42丁目)

 滋賀民医連の職員六人で、ニューヨークに行ってきました。
 集会がおこなわれた五月二日は雨が心配されましたが、当日は暑いくらいに晴れ上がりました。全世界から一万人が参加。戦争中のアフガニスタン、日本のお 隣・韓国やヨーロッパ、アフリカまで、各国のまさに老若男女が集い、思い思いの趣向をこらした衣装や楽器などを持ち寄っていました。
 集会前日、会場となったタイムズスクエアで爆破物騒ぎがあり、集会開催も危ぶまれました。騒ぎの余波で、旗やのぼりを掲げる鉄のポールが持ち込み禁止に。ポールを警官に取り上げられた人も。
 私たちが滋賀県から持ち込んだ「ムシロ旗」のポールもダメだと警官。しかたなくその場は納めましたが、行進が始まったときを見計らってちゃっかりとり出 し、ムシロ旗を掲げました。職場の仲間たちが署名と、私たちを送り出すためのカンパも集めてくれ、「パレードの趣向に」とムシロ旗をつくってくれました。 その思いと努力に応えねばと思ったからです。

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街の反応も上々、滋賀民医連のムシロ旗(写真:筆者提供。5月2日、42丁目)

 やはりムシロ旗は目を引きました。たくさんの観光客や通行人が足を止め、写真を撮っていきました。
 パレードでは、世界平和市長会議会長の秋葉忠利広島市長、副会長の田上富久長崎市長が先頭に立ちました。しかしやっぱり行進中元気だったのは、どこの国 なのか、行進のあちこちで仮装して音を出しながら踊っていた若者たちでした。
 日本人だって負けていません。目を引いたのは和太鼓。どうやって持ち込んだのかわかりませんが、リズム感があって注目度バツグン。私たちもお祭り気分 に。日本のように「うるさい」などと野暮なことをいう通行人は皆無です。音を出して当然という雰囲気で、日本と大違い。次にニューヨークに来るときは、絶 対音の出るグッズが必要だと思いました。「デモ行進」ではなく「パレード」ですから。

 

前回の10倍の参加めざし

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日本から国連に届けられた核廃絶署名の山

 前回(二〇〇五年)の再検討会議のときは日本から一〇〇〇人が集会に参加、滋賀県は五人(民医連三人)でした。
 今回はニューヨーク集会にあたり、滋賀県の平和団体・労働組合・民主団体などが集まって、二〇一〇年の再検討会議の重要性を学ぼうと学習会を開催。講師 に招いた広島平和文化センターのリーパー理事長が「日本から前回の一〇倍参加し、国連に圧力をかけよう」と。これに参加者は大いに刺激され、「滋賀県か ら、どうやったら前回の一〇倍の五〇人参加を実現できるのか」と、真剣に議論しました。
 また、日本原水爆禁止協議会(原水協)からは「国民の一割の核兵器廃絶署名を集めよう」と提起があり、滋賀県民一四〇万人の一割(一四万筆)を集めようととりくみました。
 当然、民医連だけでは実現できません。購買生協や、三井寺、そして平和団体のみなさんと「署名推進センター」を結成。「地域センター」も二カ所つくり、自治体にも参加者の派遣を申し入れました。
 滋賀民医連も診療所三つの小さな県連ですが、過去にとりくんだ最高の署名数(九七年健康保険改悪反対署名)と同じ一万筆を実現しようと意気込みました。 結果、参加者は滋賀県全体で三四人(民医連から六人)、署名は約一一万筆に。目標に到達せず残念でしたが、滋賀民医連は一万五四五筆の署名を集め、民医連 職員一人当たりの署名数では全国トップ。私個人は八〇一筆を集めました。
  参加者三四人の中には、自治体から派遣された、滋賀県草津市の市民五人(日本で唯一?)や、自治体労働者四人、購買生協の六人などが含まれています。

核廃絶署名、国連でも紹介される

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エジプト軍縮大使、米、英NGO関係者を招いた、日本原水協主催の公開シンポジウム(5月3日、リバーサイドチャーチ)。米反核活動家のガーソン氏(中央)は「日本の平和運動は常に世界の導きの星…」と

 私たちが集めた大事な署名をふくめ、日本全国から寄せられた六九〇万余筆の署名は、再検討会議 のカバクチュラン議長(フィリピン大使)、ドゥアルテ国連上級代表(軍縮担当)に提出してきました。カバクチュラン議長は、再検討会議の冒頭でも「私は署 名を受け取りました。市民社会の熱意に私たちは応えなければなりません!」と発言したそうです。
 反核大集会がおこなわれた当日は日曜日。本来国連も休みでしたが、二人はわざわざ行進が終わるのを待って出てきてくれました。
 集会に先立つNGOの国際平和会議閉会総会(五月一日)では 基文国連事務総長があいさつ。NGOの会合で事務総長があいさつしたのは初めてとのこと。国連や各国の心ある人は、日本の反核平和運動に敬意と期待を寄せていることがありありとわかりました。

 

セントラルパークで署名に挑戦

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なれない英語でSignature please!(写真=筆者提供。署名板を持っているのが筆者。5月2日セントラルパーク)

 私たち滋賀の代表は五月二日午前、セントラルパークで英文の核廃絶国際署名行動にとりくみまし た。なれない英語で不安もありましたが、参加した滋賀民医連の仲間は「日本より署名してくれる人が多い」「しっかり署名内容に目を通してから署名してくれ る」「断る時も目をみて意志表示され、さわやかだった」と。いい経験になりました。
 五月四日には、「医療福祉関係者のつどい」も開かれました。ゲストとしてアメリカの医師、アメリカの水爆実験被害にさらされているマーシャル群島の元上院議員の女性、韓国原爆被爆者協会会長の金龍吉さんが発言。
  なかでも金さんの話は印象的でした。在韓被爆者は当初一〇万人だったそうですが、十分な医療支援や補償もなく、多数が亡くなり、現在二四〇〇人。「一刻も はやく、医療支援だけでも」と。日本人として放っておけない問題だと心に刻みました。
  さらにつどいでは、各地の民医連のとりくみとともに、帰国後に控えている反核平和行進や原水爆禁止世界大会の成功にむけ、決意を固めあいました。

“同情だけじゃなく行動を”

 一緒に参加した若手職員は、「自分より若いフランスの高校生ががんばっている姿を見て刺激を受けた」「被爆者の体験を聞いて涙が出た。同情だけじゃなく、行動が必要」と話していました。何とも頼もしい。
 核兵器廃絶はいっきに実現するようなたやすいものではありませんが、今回の行動参加で見聞きし、感じたことを確信にして、引き続き「人類の悲願、核兵器 廃絶」に向かってがんばっていきたい。私たちを送り出してくれた職員、友の会員、地域のみなさんに感謝。読者のみなさん、ともにがんばりましょう。
写真・前沢淑子(東京社保協事務局長)

いつでも元気 2010.7 No.225

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