いつでも元気

2010年12月1日

撫順の奇蹟を受け継ぐ “人間”を取り戻した元戦犯たち フォトジャーナリスト 豊田直巳

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自分の加害と侵略戦争を反省し、1988年に戦犯管理所の敷地内に中帰連が建てた「謝罪碑」の前で、黙祷する高橋さん(手前)と坂倉さん

 「当時私たちは、上は将軍、高級官僚から、下は下級兵士に至るまで、全ての者が、日本の天皇中 心主義の軍国主義に骨の髄まで侵されており、中国を侵略して、取り返しのつかない被害を中国人民にあたえたという自覚を微塵も持っていませんでした。その ため、ごう慢無礼な要求を出したりして、反抗心をむき出しにしておりました」
 静まり返った中庭に、マイクを通して中国語が響きます。その通訳の間、照り付ける直射日光の下、微動だにせず立ち尽くす高橋哲郎さん。ふと、用意したあ いさつ原稿から目を離し、遠く過ぎた日を思い出すかのように正面に目をやると、そこには六〇年前、自らが戦犯としてシベリアから移送されてきたときのまま の姿で、撫順戦犯管理所が建っています。
 「計り知れない被害を受け、恨みと憎しみに満ちている中国人民は、このような私たちの態度に対して、管理所の全職員を通じて、実に辛抱強く、誠心誠意を 持って人道的に処遇してくれました。(日本兵に対する)個人的な恨み、憎しみを乗り越えて、私たちの真人間への転変に惜しみなく力を尽くしていただきまし た。
 そのような環境の中で、私たちは一歩一歩、自己の過去を厳しく反省することができるようになり、中国人民に与えた被害の深刻さにがく然とし、心から自らの罪業を率直に認めることができました」
 “かくしゃくとした”との表現は、この人のためにあるかと思わせます。直立した八九歳の高橋さん。しかし、その瞳はうっすらと涙に覆われているように見えます。

敵・味方が肩を並べた記念式典

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千葉県匝瑳市(そうさし)のお寺に、中国帰還者連絡会(中帰連)千葉支部が建てた「謝罪碑」の前の元731部隊少年兵だった篠塚良雄さん(左)、坂倉さん

 今年六月、中国東北部遼寧省の撫順市にある撫順戦犯管理所で、開設六〇周年を祝う記念式典がお こなわれました。ここは映画『ラストエンペラー』でも知られる旧満州国皇帝・溥儀を収容していたことで有名ですが、同時期に約一〇〇〇人の元日本兵も収容 していました。一九五〇年、ソ連による抑留の地から移送されてきた戦犯たちです。彼らは戦犯を裁く五六年の瀋陽軍事法廷で大半が起訴免除、即日釈放とな り、その年に日本に帰国しました。有期刑判決を受けた四五人も、刑期満了を待たずに釈放され、六〇年代前半には日本人戦犯全員が帰国しました。
 ですから管理所といっても、現在は「撫順戦犯管理所旧址」と名づけられた記念博物館として保存されています。今回の式典は、その博物館の改修工事の完了 と展示のリニューアルオープンを兼ねたものでした。しかも稀有なことに、式典に戦犯管理所時代の元職員や元看護師が招待されただけでなく、中国共産党と戦 火を交えた元国民党軍司令官や日本軍の元兵士など、元戦犯やその家族までも招待されたのです。敵・味方であったはずの元職員と元戦犯が肩を並べて管理所の 開設を祝うなど、世界史上、他に類を見ない記念式典です。

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60周年記念と、博物館になっている管理所の展示館のリニューアルオープンを祝って鳩が飛ばされた

 日本からは高橋さんとともに、今年九〇歳になる坂倉清さんも参加しました。坂倉さんは数年前に、日本軍による大虐殺で知られる南京を訪れ、中国の大学生たちの前でこう証言、謝罪しました。
 「一九四一年六月のある日、私の所属する部隊は一五、六人の中国人を発見し、八路軍と見なしました。そして、私も距離三〇〇メートルから銃を撃ち、一人 に命中させました。そして私は、ただちに武器を取り上げようと、その人に近づきました。しかし、それは武器も持たない若い母親だったのです。傍らには一歳 に満たない嬰児が、死んで横たわる母親の乳首を求めていたのです」

 

認罪、そして人間回復の地

再会に涙する元戦犯と元職員

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元職員の英順さん(帽子)や前所長と再会を喜び合って握手する高橋さん

 このような罪をはたらいた坂倉さんたち戦犯に対して、解放まもなく、管理所職員すらもコーリャンの食事に甘んじざるを得ない中国の食料事情の中でも、管理所は「日本人は米を食べるから」と、米飯を用意し、魚や肉を調達し食べさせたのです。
 また病人が出れば、当時は入手困難なペニシリンまで医師たちは手に入れて看病に専念しました。職員の中には日本兵に家族を殺された者もいたにもかかわら ず、です。「日本軍がおこなった『奪い尽くし(搶光)、殺し尽くし(殺光)、焼き尽くす(焼光)』という三光作戦のような行為とは真逆の、人間的な扱い だった」と坂倉さんは振り返ります。それは「罪を憎んで人を憎まず」「兵士も軍国主義の犠牲者」との人道主義政策の実践でした。
 釈放されて五〇年余過ぎた今も、二人は元職員を「先生、先生」と呼んで慕い、再会に感謝と喜びの涙を流します。それは撫順戦犯管理所で起きた人間回復の物語を象徴しているかのようです。
 元戦犯を代表した高橋さんは、あいさつをこう結びました。「二〇世紀の半ばに、この撫順の地において、平和を熱愛する中国人民の手によって『鬼が人間 に』転変するという『奇蹟』を実現したこの管理所が、名実ともに大改修され、平和学習の殿堂として、世界の若い人びとに強い影響をあたえ続けることを心よ り祈念致します」

“奇蹟”引き継ぐ青年

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「ひとりの死者も出さない」との厳命のもと、戦犯を治療した医務室が当時のまま残されている

 式典には、元戦犯の二人に同行した人たちがいました。元戦犯たちが帰国後に、日中不再戦を誓っ て結成し、日中友好を進めてきた中帰連(中国帰還者連絡会)を、高齢から解散せざるを得なくなったことを知って、二〇〇二年に「撫順の奇蹟を受け継ぐ会」 を立ち上げた人たちです。中帰連につどった元戦犯たちが、人前で自分の加害行為を繰り返し証言する姿に感激し、また、罪を罪として認めることができるまで に人間性を回復させた中国の人道主義政策に感動してのことでした。
 今回、同行した「受け継ぐ会」会員のなかには、元戦犯の孫の世代にあたる若者もいました。
 「元中帰連会員がここで体験した“転変”は、それに関係した人間を強く結びつける力があります。今回の訪中でも、その団結や友情、信頼を実感しました。 これこそが『撫順の奇蹟』なんだろうなあ」と話す伊藤仁さん(32)。「歴史的な光明の一端にふれることができ、平和への決意を新たにしました」と宣言し ます。
 荒川美智代さん(36)も、感激も覚めやらない様子でこう話します。
 「家族が殺されたら、私は日本軍を絶対に許せないと思います。仕返しを考えるほど。ところが管理所の職員たちは、その辛さを乗り越えて日本兵の世話をし ました。正直、今でも信じられません。ですから、私にとって管理所で起きたことのすべてが奇蹟です。その管理所で、こうして九〇歳にもなる元戦犯と元職員 の方々が交流する。その場にいっしょにいられたこと、それは私にとって奇蹟の体験です」

いつでも元気 2010.12 No.230

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