民医連新聞

2003年2月11日

「時代」をつなぎ未来(あした)へ

青年が探訪する民医連の歴史

いつも“おかか”たちが診療所をまもった

 50周年を迎える全日本民医連。加盟する事業所の誕生にはドラマがあります。 先輩たちがつくってきた歴史を青年職員がたどります。今月は石川。能登半島の付け根にある長い砂丘。ちょうど50年前、この浜の小さな漁村に民医連の診療 所が生まれました。きっかけは、砂丘をアメリカ軍の試射場にさせない、という「内灘闘争」でした。2年目職員・吉野樹理さんが莇(あざみ)昭三先生にきき ました。(木下直子記者)

 朝鮮戦争がはじまって2年目の1952年、内灘闘争というのはてっとり早く弾薬を手に入れたいと考えたアメリカがそれまで日本に禁じていた武器製造を許し、弾薬の殺傷能力の試射場に内灘の砂丘を使いたいと、とりあげようとしたことから始まりました。
 しかし地元の「おかか」(お母さん)たちが「この貧しい漁村で砂丘をとりあげられたら地引き漁も、砂丘を使った米づくりもできなくなる」と、生活のため にたちあがった。それまで日本を占領していた強大なアメリカに誰もものを言えなかったのに、女性たちがむかっていったのです。
 これが日本で最初のアメリカ軍基地反対の運動になりました。浜の着弾地点の真ん前にムシロ小屋をつくり、座り込みました。日中は村人が子どもたちを連 れ、夜は学生や労働者が交代で座りました。全国からの支援もたくさん。多いときは3000もの人が、またそれを弾圧するための警察や保安隊(自衛隊の前 身)も同じくらいの数で砂丘と村を埋めました。
 全日本民医連も1953年6月に結成され、内灘への支援を決めたので、各地から民医連の医療班がやってきました。私は、その受け入れ担当で働きました。

 やがて砂丘は町の妥協で試射場にとりあげられ、1年間続いた反対運動は下火に。しかしお母さんたちから 「民医連の診療所が欲しい」の声があがりました。村民のカンパや石川にあった2つの民医連診療所がお金を出し、「診療所をつくる会」の大工さんたちが村の 共有地に「内灘診療所」を建てました。所長は25歳の莇医師。53年10月1日の開設でした。
 「民医連の診療所が欲しい」という声は、医療班が真摯に医療にあたったから出たのでしょう。当時、お医者は地域の「おやっさま」(名士)で、気軽に診てもらえない存在でした。
 村の三分の二くらいは健康保険に入っておらず、医療費は全額私費でした。一般の開業医は専門の医療費取り立て人を雇っていましたが、僕らはそういうこと しない。盆暮れに、僕も含め職員が集金にまわり、集まっただけのお金をまず必要経費にあて、残りがボーナス。村の人と同じでサツマイモが主食でした。全国 の民主診療所はみな同じような様子だったでしょう。

 「内灘診療所を潰せ」。診療所ができたとたん、国は接収補償条件に村立診療所建設の予算を新たに加え、近くに診療所が建ちました。しかし内灘診療所の患者は減りません。政府や村はさらなる手を打ちました。
 政府の考えは「国に刃向かった人たちの診療所などできて面子がつぶれた。内灘の反対運動をやっと抑えたのに」ということでしょう。
 内灘診療所は、40万円で建てたバラック、政府の診療所は700万円、モルタルの立派な建物でした。それでも患者さんがそちらに流れなかったのは、地域 に密着した僕らの医療が認められていたから―いまでもそうじゃない? 城北病院の前に立派な病院ができても、職員が真摯な医療をしていれば、患者さんは減 るどころか「病院を潰せない」と考えて、一生懸命援助してくれると思うよ―。
 次は診療所の30センチ隣にあった漁師小屋が突然、村立診療所「分院」につくりかえられた。さすがにこれは打撃で、患者さんが減りました。だってこの分 院の看護婦が窓をあけて内灘診療所を覗き、来た患者の名前をメモし、毎日村役場に報告したんです。役場は地域の区長に連絡する。区長は日が暮れてからその 患者さんを呼び「内灘診に行くな」と圧力をかけたんです。
 でも、患者さんたちは負けませんでした。午後の往診先の家に、近所の患者さんたちが集まるんです。そういう「出張診療所」のような溜まり場を何カ所もつくって診察が受けられるようにした。本当にたいした人たちです。
 僕ら職員も苦労しましたが、もっとたいへんだったのは、自宅を「溜まり場」にしてくれた人たちです。「なぜあんな医者を家に入れる」と、地域のボスに責 められていました。当時そうしてささえてくれた人たちは年をとりましたが今でも城北病院にきてくれています。僕らはこの「おかか」たちに守られて医療をつ づけてこられたのです。

 この後も、内灘診療所は厚生省の医療監査や、国民健康保険の指定医療機関から除外されるなどの数々の妨害を受けますが、患者さんたちに守られ、城北病院の前身、城北厚生診療所が開設するまで医療をつづけ、58年に閉鎖します。
吉野 こんな歴史が私の病院にあったんですね「プロジェクトX」みたい。でも若い職員は私のように民医 連のことを知らずに就職することが多くて「患者さんの立場」にたった医療はわかりますが、運動は理解できないという人もいます。最近職場でそういうことを 考える若者が集まって勉強したりもしましたが、民医連って何? と思います。先生が若い人に伝えたいこともうかがいたいです。
莇 私は、本当は研究者になるつもりで、大学の研究室にいました。診療所の話がもちあがり、所長にと要請されて悩みました。でも「人びとに頼まれた時に応 えるのも一つの人間的な生き方だろう」と考えたんです。とりあえずのつもりで着任したら事件がつぎつぎ起こって、対応してて今に至った。
 僕の造語で「医療は患者と医療従事者の共同の営み」というのがありますが民医連の原点は「地域の人たちの医療・介護を阻害しているものを除きながら、力 を合わせて働く人びとのための新しい医療をつくろう」というのだと思います。日常の看護と「署名活動」は、関係ないと思う人が多いかもしれませんが、受診 を抑制されて困っている患者をどうするかが私たちの運動の出発点なのです。先に署名があるのではなく「目の前の患者さんをどうしよう?」という専門家の視 点から。
 私たちが手塩にかけた民医連には発展してほしい。それは、あなた方にかかっているね。期待してます。
吉野 がんばります

(民医連新聞 第1300号 2003年2月11日)

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