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いつでも元気

いつでも元気

消えたまち それでも

文・写真 豊田 直巳(フォトジャーナリスト)

屋敷を解体する前の「家のお葬式」に際し、先祖の遺影を持って記念撮影。今野邦彦さん(右から2人目)が持つのは、安政4年(1857年)から伝わるという裃。(2022年5月3日撮影)

屋敷を解体する前の「家のお葬式」に際し、先祖の遺影を持って記念撮影。今野邦彦さん(右から2人目)が持つのは、安政4年(1857年)から伝わるという裃。(2022年5月3日撮影)

②解体された屋敷

 2011年3月の東京電力福島第一原発事故から14年。フォトジャーナリストの豊田直巳さんが、福島のまちで起きている現実をレポートします。

 1956年の町村合併で浪江町となった山間部の津島地区(旧津島村)。原発事故から14年経った現在も、地区の大半は帰還困難区域のままだ。国が設けた「特定復興再生拠点区域」として2023年3月に避難指示が解除されたのは、津島地区のわずか1・6%に過ぎない。

築170年の屋敷

 津島地区で今、聞き慣れない「キワ(際)除染」と呼ばれる作業が進められている。幹線道路沿いの両側20m幅を対象に、除染と建物解体を行う作業だ。
 津島地区で700年前から続く今野家の20代目今野邦彦さんも、生まれ育った家をキワ除染で解体した。今野家に残る家譜によれば、解体された家は安政3年(1856年)6月に、徳川幕府にも献上されていた津島松を使って建てられた。「26両2分3朱200文、米9石6斗7升5合」の工費で、「間口10間、奥行5間」(約18m×9m)と記録されている。
 風格のある屋敷は、6代170年にわたって今野家の家族を守り育ててきた。また、今野さんが「冠婚葬祭では100人以上も大広間に入った」と言うように、地域の人々のつながりも見守ってきた。

集落の分断を危惧

 しかし、原発事故で飛散した放射性物質は、20㎞も離れた阿武隈山地の津島地区にも流れ込み、全域を高濃度に汚染した。「100年は帰れない」と言われ、全域が帰還困難区域に指定された。津島地区の家々は地震で大きな被害がなかったにもかかわらず、イノシシやハクビシンなどの野生動物が入り込み、急速に荒れていった。
 今野さんの家も足の踏み場もないほどに朽ちてしまい、解体という苦渋の決断をせざるを得なかった。今野さんは「キワ除染で公費解体してもらえるウチはラッキー」と言うが、微塵の喜びも感じられない。
 「特定復興再生拠点区域を除染するためのアクセス道路として、たまたま家の前の町道が指定された。でも、道路沿いの両側20m幅しかキワ除染の対象にはならない。小さな集落で協力し合って暮らしてきたのに、公費解体できる〝幸運〟な人間と、希望してもできない人間に分けられてしまった」と今野さん。何百年もかけて築いた地域の絆が分断され、集落が壊されてしまうのも心配だ。

国策に翻弄され

 津島地区には戦後開拓で払い下げられた国有林に入植した人々も多く、彼らも山村の厳しい暮らしを支え合った仲間である。その苦労を知る今野さんは、彼らの気持ちを思いやる。
 「幹線道路から離れた奥のほうの家はキワ除染の対象にならない。今のまま放置せざるをえないが、それは思い出がいっぱい詰まった家が朽ち果てるのを生きている間中、ずっと見続けなきゃいけないということ」と今野さん。それは彼らにとって〝拷問〟に近いことなのだと憤る。
 実は戦後の津島地区の入植者は、満州(中国東北部)から日本へ戻って来た人たちの割合が多い。
 「戦争も国策で、彼らが満州へ行かされたのも国策。戦後に山の中へ入植させられたのも国策でしょ。原発推進も国策で、その結果起きた原発事故も国策の一部ですよ」と今野さん。
 国策に翻弄され続けた結果、すべてを奪われた被害者が家の解体を希望しても国は拒否する。「そんな理不尽なことってありますか」と、今野さんの声に怒気がこもる。「集落全体を汚したんだから、修復も全体を同じに扱って〝面〟でやるべき」と強く訴える。

いつでも元気 2025.5 No.402