いつでも元気

2014年4月1日

特集1 事故から3年の福島 ジャーナリスト・志葉 玲

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上野さん宅

 東日本大震災・福島第一原発事故発生から三年。政府や電力会社は、原発の再稼働や輸出に腐心し、まるで事故などなかったかのように振る舞っている。だが、原発事故の被害は、今なお多くの人々を苦しめている。
 私は、福島県を訪れた。

未だ見つからない息子

 荒涼とした大地を海からの風が吹きぬける。南相馬市原町区萱浜は、震災による津波で壊滅的な被害を受けた。ほとんどすべてが押し流された中で、たった一軒の家だけが今も辛うじて原形をとどめている。軒先には、おもちゃや折り紙の鶴が供えられていた。
 「あれからずっと考え続けています。なぜ、子どもたちを救えなかったのか」
 この家の主、上野敬幸さんは、両親と永吏可(えりか)ちゃん(8)、倖太郎くん(3)を津波で失った。上野さんの瞳に色濃く宿る影は、私がイラクなどの紛争地取材の中で見てきたそれと似ている。
 原町区の南側は原発から二〇キロ圏内だったため、事故翌日に避難指示が出され、のちに警戒区域(立ち入り禁止)とされた。上野さんの自宅は原発から約二二キロ地点にあり、屋内退避を指示された。
 甚大な津波被害にもかかわらず、この地域における行方不明者の捜索活動は大幅に遅れた。二〇〇人規模の自衛隊特別チームが来たのは、震災から一カ月以上 経ってからだ。しかもたった一回捜索をおこなっただけで、ほかの地域へと移って行った。
 仕方なく、上野さんは地元の有志とともに遺体を探した。「でも重機は一機しか使えなかった。放射能で汚染されることを嫌がられて、ほかの重機は借りることができなかったんです」と話す。
 上野さんらは手作業でへどろやがれきをかき分け、四〇人以上の遺体を回収した。その中には、永吏可ちゃんの遺体も含まれている。
 「嫁さんは妊娠していたこともあって、事故直後に避難しました。だから永吏可を抱きしめることも、火葬に立ち会うこともできなかった。悔しいですよ。東 電の社長や会長には、土下座して詫びてほしい」と上野さんは憤る。
 倖太郎くんの遺体は見つかっていない。今も上野さんら「福興浜団」は、毎週末、遺体や遺品の捜索を続けている。

仮設住宅の現状

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全域が警戒区域になった南相馬市小高区。警戒解除された今も、ひと気がまったくない

 一体、どこにあるのだろうか──私の車は福島県二本松市の山中を迷い、走り回っていた。ようやく辿り着いたのは、杉内多目的運動場広場仮設住宅。ここには福島第一原発から二〇キロ圏内にある、浪江町からの避難者たちが一三二世帯も住んでいる。
 仮設住宅は周囲を山に囲まれ、最寄りの町まで約四キロというへき地。標高が高いせいか、やけに寒い。「二本松市中心部よりも、体感温度が四度くらい低い んです」──現地で合流し、私を案内してくれたNさんはそう語る。Nさんは福島県内の放射線測定や、避難者支援にとりくんできた人物だ。
 「現在、仮設住宅に残っているのは、ほとんどが高齢の方で、若い人たちは別の地域に移住しています。残った住人は移住した息子や娘の生活を支えるため に、東電からの賠償金を仕送りしているようです。まるで『若い世代を守るため、年寄りを姥捨て山に』という童話のようですよ」とNさんは話す。
 この仮設住宅はメディアが嫌いな人が多いようだ。「取材を受けても、どうせ何も変わらない」という理由らしい。それでも何人かは話をしてくれた。
 「この仮設住宅にも中高校生が数人残っているけど、同じ年頃の友だちが近所にほとんどいないのはかわいそうだね。転校先の学校に馴染めなくて不登校に なっている子どももいるよ」「仮設住宅暮らしでの三年は長かった。もうそろそろ、浪江に帰れるのか、帰れないのか、はっきりしてもらいたい。ここに住む人 たちは、もう“村人みんなで一緒に住む”ことよりも、“どこでもいいからちゃんとした家に住む”ことを望んでいます」

被災地で子どもを育てる

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全域が警戒区域になった南相馬市小高区。警戒解除された今も、ひと気がまったくない

 原発のある海岸沿いから離れた福島県の中央部「中通り」の市街地はにぎやかで、一見、ほかの都市部と変わらないように見える。だが、Nさんは「中通りの放射能汚染も深刻です。特に人が集まる公園などの汚染がひどい」と話す。
 「公園にある木製の遊具に放射線計測器を近づけると、数値が見る見るうちに上昇していきます。二本松市や郡山市では表面の線量がガンマ・ベータ線の合算 で五~一〇マイクロシーベルト(毎時)超という木製遊具もありました(注)。公園自体は除染されていても、遊具が除染されないまま、というケースは多々あります」
 郡山市議会で脱原発を訴え、市民の放射線防護に尽力してきた滝田春奈市議は、昨年七月に第一子を出産した。「正直、郡山市で子どもを育てていいのか、迷 いもあります。除染はおこなっていますが、まだまだホットスポットがいくつもあるので」と語る。
 「同世代の友人は、ほとんど郡山市外や福島県外に避難しています。(健康被害を恐れるあまり、考えたくないとの想いから)『余計なことを言うな』という 雰囲気が市民のなかに広がっており、子育てに良い環境とは言えないのが現状です」

風化させてはならない

 医療費の減免や避難先での就労・就学支援などを支える「原発事故子ども・被災者支援法」(以下、子ども被災者支援法)が、二〇一二年六月に成立した。
 しかし昨年秋に閣議決定された基本方針は、被災者の求める「年間一ミリシーベルトを超える地域と福島県全域を支援対象に」という内容とはほど遠い。支援 対象は福島県の三三市町村のみにとどまり、その上、同法に基づく支援策は全く具体化していない。
 被災者たちはただ黙っているばかりではない。今年一月二八日、原発事故の被災者や支援者らでつくる「原発事故被害者の救済を求める全国実行委員会」が、衆議院第一議員会館で集会を開いた。
 そして「子ども被災者支援法」の具体的な施策の早期実現を求める署名を、参加した国会議員に手渡した。昨年一一月に提出された署名とあわせて、約二〇万筆にものぼる。
 ずっしりと重い署名の入ったダンボール箱を国会議員に手渡しながら、被災者たちは「政治の力を信じさせてください」「本腰を入れて実のある法律にしてほしい」と訴えていた。
 原発事故の責任は、政府・東電などの「原子力村」の人びとにあるのは当然だが、原発に積極的に反対してこなかった国民にもあるのではないか。政府や少な くない国民はオリンピックの誘致に熱を上げていたが、未だに被害の残る被災地の現状から目をそらし、風化させることは許されない。

(注)通常は〇・二七四マイクロシーベルト(毎時)以下が国の基準

いつでも元気 2014.4 No.270

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