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2015年8月4日
被爆を認められないヒバクシャたち 広島「黒い雨」被害者・長崎「被爆体験者」を知っていますか――
原爆被爆者たちはこれまで、健康障害に苦しみながらも、平和と核兵器廃絶のために声をあげ続けてきました。その中には、いまだ被爆者と認定されず、被爆者健康手帳を手にできない人たちがいます。広島では原爆投下直後「黒い雨」にさらされたが、認定区域外にされた地域の人たちが集団訴訟に向け動いています。また長崎でも「被爆体験者」と呼ばれ、健康被害が放射能によることが認められていない人たちの健康調査を民医連が行い、支援しています。
広島「黒い雨」認定区域拡大求め「ワシらも被爆した」
今年三月、七〇~八〇代の三六人が、広島市役所に被爆者健康手帳などの交付を申請しました。手帳は原爆被爆者の「証明」で、これを持っていれば医療費無料や健診などの国の支援が受けられます。原爆投下から七〇年も経って申請したのは、国の指定から外れた地域で「黒い雨」にあい、被爆を認めてもらえていない人たちです。
「黒い雨」とは、原爆が炸裂した時の塵や埃を含んだ雨です。熱線や爆風を免れた地域にも降り、放射能汚染を拡大しました。この雨にうたれて下痢や脱毛、出血傾向、急性白血病などの急性放射線障害を発症した人もいます。
申請者の一人、清水博さん(77)は爆心地から北に一七kmほどの亀山村(現・安佐北区可部町)の国民学校二年生でした。原爆投下時は始業直後の教室に居て、閃光とドンという衝撃をくらいました。一時間ほど裏山の横穴に避難してから帰宅を始めた時、山向こうの空から、真っ黒な雲がもくもくと迫り、黒い雨に降られました。
「その後も黒い雨が注いだ川の水を飲み、飯も炊いた。『キュウリを切ったら黒い汁が出た』と話した友人もいた」と、清水さん。二〇代から胃の疾患に悩まされ、五〇代でがんを発症、全摘しました。二歳上の姉も甲状腺疾患です。
「近くの山にはアメリカの気象観測の落下傘が三つ落ちた。落下傘が来たのは、あの日、広島市からの風がこちらに吹いていた証拠。当然、放射性物質も流れてきていた。わしらが病気ばかりしてきたのは原爆のせいじゃ。国はなぜ、被害者の話が聞けんのだろう」。
届かない支援策
直接被爆や入市被爆の人への被爆者健康手帳の交付は原爆投下から一二年後の一九五七年に始まりましたが、黒い雨の被害者についてはさらに一九年後の七六年になって「健康診断特例区域」を指定。区域内で黒い雨にあった人には無料健診の第一種健康診断受診者証を交付し、がんなどの特定疾患になれば被爆者手帳に切り替えるようにしました。しかし区域は大雨だった範囲に限られました。
区域拡大を求め「黒い雨の会」が各地でできたのはこの時期です。現在運動する「黒い雨」原爆被爆者の会へとつながっていきます。
会などの運動で、広島県・市が二〇一〇年、三万六〇〇〇人を対象に大規模調査を実施。実際の降雨は当時発表された以上に広く、「未指定地域の住民は被爆者に匹敵する健康不良状態」という結果に。これに基づき、県と三市五町の首長が連名で、援護対象区域を六倍に拡大(地図)するよう国に求めましたが、厚生労働省の検討会は「降雨地域の特定は困難」と否定(一二年)。未指定地域にいた人に保健師などが話を聞くだけの相談事業を、一三年から始めた程度の対応しかしていません。
川で遊んでいた子どもたち
さらに爆心地から離れた地域でも、証言があります。北北西に約二八kmの加計町穴阿(あなあ)地区(現・安芸太田町)にいた石井隆志さん(78)と斉藤義純さん(82)は、川で遊泳中、黒い雨にあいました。
「河原に脱いであった白いシャツがドロドロに汚れていた。黒い筋だらけになったお互いの顔を見て『なんじゃぁ?』と笑うた」。
降ったのは雨だけではありませんでした。上空がかすみ、たくさんの紙くずが落ちてきました。子どもたちは、好奇心で紙を追いかけました。この地域でもドンという音は聞こえましたが、それがどれほど危険な爆弾で、広島市内で何が起きていたか、知るよしもありませんでした。「爆風で舞い上がった物が、放射能と一緒に落ちてきていたんじゃな…」二人はうなずきあいました。
一緒に遊んでいたのは六人ですが、四人はがんや白血病などで早逝。原爆症だと主治医に言明された人もいましたが、指定地域でないため、何もできませんでした。残る二人も若い頃から体調不良に悩んできました。「こんな私らに『原爆の被害がなかった』と言い渡すのは人間のすることだろうか」と石井さん。斉藤さんとともに、黒い雨地域拡大を求める訴訟に参加すると決めています。「国には筋を通せと言いたい」。
訴訟へ
降雨の指定区域が拡大されなくても、泣き寝入りはできませんでした。五地域約四八〇人の会員を束ねる「黒い雨」原爆被害者の会連絡協議会が訴訟に踏み切ると決めたのが去年。三月に行った手帳と健診受診者証の申請が却下されれば、集団提訴するつもりです。
「原告は二〇人程度集まればいいと思っていたのですが、七〇人が手をあげました」と、同協議会の牧野一見事務局長。牧野さんは広島中央保健生協の組合員でもあります。住んでいた町が、川を隔てて指定区域と未指定区域に分断されて以来、この運動に関わっています。「申請した本人に被爆の証明を求め、できなければ救わないという国のやり方は正しくない。健康への影響という一番の証拠があるではないですか」。
降雨地域の罹患率の高さや、黒い雨の健康影響を科学的に示したデータも研究者から出されています。地元の大学生の協力も。「年内に裁判になると思います。長崎の『被爆体験者』とも連携し原爆症の訴訟に関わる民医連医師の支援ももらいながらたたかいます」。
(木下直子記者)
長崎「被爆体験者」精神的影響しか認められず
長崎原爆で指定されている「被爆地域」は、旧長崎市の行政区域に限定されています。被爆者の援護救済制度は、被爆した地域や条件で何段階にも区分され、爆心から六・七~一二km以内の地域のうち、「被爆未指定地域」で被爆した人々は「被爆体験者」と呼ばれ、精神疾患とその合併症にしか医療費が給付されていません。被爆体験者に生じた健康被害は「精神的要因」とされているからです。
そもそも、原爆症認定の実態から分かるように、国は原爆の放射線による健康影響を爆心に近い場所にしか認めていません。放射性降下物による低線量の内部被曝は考慮していないのです。しかし現実には遠距離でも多くの被爆体験者が、被爆直後に脱毛・下痢・鼻血などの急性症状を発し、その後も多くの疾病に罹患しています。
健康調査が被爆示す
長崎民医連では、被爆体験者の健康被害を非被爆者と比較する調査を行い、被爆体験者に生じた健康影響の実態を明らかにしました。たとえば急性症状については、被爆体験者の五六・五%が何らかの急性症状があったと回答、非被爆者と大きな開きがあります。一三種類の急性症状全てで、明らかに被爆体験者の方が多いと分かりました。その後も、被爆体験者は各疾病の罹患率が高く、六割を超す被爆体験者が、七種類以上の疾病を抱えていました(図)。
また、被爆体験者の証言からは、「黒い雨」の降雨、爆心方向から来た灰や燃えかすの降灰、原爆投下後の原子雲が、広範に広がっていたことも分かりました。このことは、被爆未指定地域が放射能環境にあったことを示しています。 健康被害の実態と合わせ、被爆体験者が放射性降下物によって被曝した証拠です。原爆放射線の健康被害を過小に見ている国の姿勢は誤りです。さらに、被爆未指定地域も爆風・熱線の被害が多いことも分かりました。原爆被爆の継承をすすめる上でも、これらは忘れてはならない事実です。
(松延栄治、県連事務局)
(民医連新聞 第1601号 2015年8月3日)
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