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2016年3月31日

双葉町が“原発PR看板”を撤去 「国策の欺瞞後世に伝えるべき」 フォトジャーナリスト 武馬怜子

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看板前で抗議する大沼勇治さん(左)と妻のせりなさん

 福島第一原発のある双葉町で昨年12月21日、同町が“原発PR看板”の撤去工事を始めた。多くの報道関係者が見守るなか、大沼勇治さん(40)の考えた標語「原子力 明るい未来のエネルギー」の文字が一つひとつ外されていく。
 5年前の原発事故後、看板は原発“安全神話”の象徴となった。責任を感じた大沼さんは避難先の茨城県から駆けつけ、看板の前に立ち撤去に抗議した。放射線防護服に身を包み、妻のせりなさん(40)とともにボードを掲げる。大沼さんは言う。「国策の欺瞞、人間の愚かさを後世に伝えるべきだ」。

願いを込めた標語

 双葉町で生まれ育った大沼さんが標語を考えたのは1987年、小学6年生の時だった。福島第一原発1号機が営業運転を開始したのは71年。その後、78年にかけて2~4号機が次々に稼働する。町は電源三法交付金など億単位の補助金で表面上は潤っていた。
 小学校で原発の標語を考える宿題が出た。アニメ「ドラえもん」に夢中だった少年の大沼さんが、原発に明るい未来を想像したのも無理はない。「ビルが建ったり新幹線とか通ってほしいな」との願いを込めた。標語は採用され、88年3月、町の中心部に看板が建った。

双葉町の中心街にあった撤去前の標語

 

復興したら展示?

 看板が設置されてから23年後の同じ3月、東日本大震災で第一原発1~4号機が壊れ、人の住めない町になった。町民は全員、遠く離れた仮設住宅などに住む。
 いわき市の仮庁舎にある町議会は昨年3月、看板撤去の予算を計上した。大沼さんは反対の署名を集め、町の人口に匹敵する6902筆を伊澤史朗町長に提出したものの、町は方針を変えなかった。
 「広報塔撤去工事の町長メッセージ」と題し、町の広報課がマスコミに配ったA4の用紙にはこうある。「看板の老朽化により原子力広報塔を撤去するが、町の財産として大切に保存をする。看板については、町が復興した時に改めて復元、展示を考えている」。
 大沼さんは「本当に展示をする気があるのでしょうか? そもそも復興は何年先になるのでしょうか」と語る。

加害者にとって目障り

 2005年から13年まで双葉町の町長を務めた井戸川克隆さん(69)は、看板について苦々しく思っていた。「いずれ壊したかった。そんなに宣伝することか、と」。財源は豊かだったが、補助金に頼る将来性のない政策では、いずれ破たんすることは目に見えていた。
 原発事故後、井戸川さんは思った。「何という皮肉なモニュメント。事故が起きたからといって、すぐに壊すものではない」。そう考え、大沼さんの署名に名を連ねた。
 「あれが目障りなのは、東京電力など事故の加害者側の人間たちです。原発事故は終わったと錯覚させるようなやり方だ」と憤る。

もう一つの標語

 大沼さんのほかにもう一人、原発PR看板の標語を考えた人がいる。故・武内義男さん(享年89)。「原子力 郷土の発展 豊かな未来」。妻の敏子さん(85)と夫婦2人で考えた標語は、1991年3月に町役場前に掲げられたが、同じく撤去された。
 「夫は1カ月前に亡くなりました」。昨年12月、敏子さんは沈んだ様子で話した。夫婦は孫の建てた栃木県の二世代住宅で静かに暮らしていた。
 「当たり前だと思っていた原発のある生活がなくなってしまった。一番、寂しい思いをしているのは本人です」。敏子さんは時折、言葉に詰まりながら話す。
 「原発が歓迎されていた時の標語ですが、事実は事実。『思い』は作った人にあると思う。どこかに保存してほしい」と願っていた。

いつでも元気 2016.4 No.294

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