いつでも元気

2020年9月30日

戦後75年 
いま、語らねば

 読者の戦争体験を紹介します

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日本軍に殺された兄

沖縄戦

高江洲義一さん(83歳)(沖縄医療生協組合員)

高江洲義一(たかえす・ぎいち) 沖縄県那覇市在住。1937年8月15日、東村生まれ。印刷会社勤務を経て1972年、沖縄人民党(73年に日本共産党に合流)専従職員に。元日本共産党沖縄県委員会副委員長。1972年の設立時から沖縄医療生協の組合員

高江洲義一(たかえす・ぎいち)
沖縄県那覇市在住。1937年8月15日、東村生まれ。印刷会社勤務を経て1972年、沖縄人民党(73年に日本共産党に合流)専従職員に。元日本共産党沖縄県委員会副委員長。1972年の設立時から沖縄医療生協の組合員

 高江洲家は祖父と両親、7男2女計12人の大家族だった。五男の僕は沖縄戦当時※1は7歳。一家は沖縄本島北部の東村高江に住んでいた。
 父の義松は中国戦線の司令部に属し上等兵になって帰国。帰国後は東村の村議をしていたので、再び軍隊に取られなかった。この中国戦線の経験が沖縄戦から家族を生き延びさせた。
 1945年4月に米軍が沖縄本島に上陸した。父は東村より北へ進攻した米軍の動きを見て、「一度制圧した地域に再び戻ってくることはない」と判断。一家はそのまま高江にとどまり、新川ダム中流の山奥に隠れた。
 父は地上戦を予想し、あらかじめ食糧用に子牛3頭を買って飼育。子牛は屠殺し2頭を家族で分けて食べた。1頭は日本軍に略奪されてしまった。

16歳で護郷隊へ

 長兄の義弘は正規兵として浦添市の部隊に配置された。次兄の義英は国民学校高等科を卒業し、東村の郵便局に勤めていたが、伊江島飛行場建設に徴用。16歳で護郷隊※2に召集された。
 次兄が所属したのは、沖縄本島の中部から北部でゲリラ戦を展開した第2護郷隊だった。1945年1月ごろ、恩納岳に配置される前に「家族に最後の別れを言って来い」と帰された。軍服姿の次兄は、帰宅してすぐに部隊に帰ると言う。大きなタコを捕ってきて半分は家族で食べ、残り半分は火で乾かして持たせた。三兄の義盛が途中まで見送った。
 次兄が優しい兄として忘れられないのは、国民学校1年生の僕に、その当時は珍しい多色刷りの絵本を買ってくれたことだ。嬉しくて何度も読んだ。表紙がカラーで、インクの良い香りがした。
 僕の下には妹と弟がいた。妹(2歳)は骨折が原因で発熱して亡くなった。まだゼロ歳だった末弟は下痢が続き、こちらも5月ごろに亡くなった。末弟の亡きがらは三兄が背負い、祖母の墓地の横に穴を掘って埋めた。
 母のウシはその前で、「おばあさん、三郎(末弟の幼名)の2人で兄さんたちの命を守ってあげてね」と拝んでいた。母は避難小屋でも泣いていた。「戦争中だから、もっとしっかりせよ」と叱りつける父に対して、僕は両手を広げて立ちはだかった。立て続けに2人の子を失った母は精神的に参ってしまい、食事もとれず大変だった。さらにその後、祖父が亡くなった。

日本兵を一喝した父

 沖縄戦の最中に日本軍の兵士5~6人が自宅にやって来た。土足で部屋に入り食糧を供出せよと言った。怒った父が「帝国軍人がこんな事をするのか」と一喝すると、1人が日本刀を抜き「なに」と目を剥いた。父は「ちょっと待て」と軍隊手帳を見せた。父が退役軍人だと知った日本兵は靴を脱ぎ、「すみませんでした」と謝った。
 放置してある米軍の水陸両用戦車を見つけたこともあった。一升ビンにひもを付けタンクからガソリンを抜き取った。いわゆる「戦果」である。まだ米軍と交戦中だったが、山中に隠れているからそういうことができた。
 その後、一家は国頭村に移り、終戦後の1945年12月に東村に帰って来た。長兄と東村から召集された護郷隊隊員も帰還したが、次兄は帰って来なかった。母は畑仕事をしながら「今日も来ない、明日は来るか」とずっと待っていた。そのうち次兄は亡くなったという噂が聞こえてきた。
 翌年、従兄弟の案内で次兄の遺骨を収集した。第2護郷隊で戦死した東村出身者は24人、小さな高江の集落でも4人が亡くなっている。
 遺骨収集の翌日の納骨の日、風呂敷を広げて次兄の遺骨を置くと、母は「ああ、なんということか義英よ。お前はどうしてこんな姿になったのか」と頭蓋骨を抱きしめ、半狂乱になって号泣した。僕ももらい泣きした。
 それから母はノイローゼになった。村祭りで突然、髪を振り乱して舞台にかけ上がり、意味不明な歌を歌いながら踊った。兄や姉は泣いていた。僕は泣くよりも、家事をする元の母に戻したいと思っていた。姉と僕は交代で学校を休み、衰弱して寝ている母の世話をした。

次兄の死の真相

 優しかった次兄がどのように傷つき、わずか17歳で亡くなったのか。僕はずっと知りたいと思っていた。
 ようやく真実を知ったのは戦後70年が経ってから。護郷隊を取材したNHKのディレクターが、次兄と同じ部隊の元隊員と僕を引き合わせてくれた。※32015年6月23日の沖縄慰霊の日、護郷隊の慰霊碑の前で真相を聞いた。
 僕は元隊員の仲泊栄吉さんと次のような会話を交わした。「僕の兄は、自決したのですか」「うーん、自決じゃない」「どういう状況でした」「あの当時は、歩けない人は軍医がね…、拳銃で撃ったんだよ」「ああ、拳銃で…」「ああ」「そうですか」「いやあ、それはもう、言いにくくてよお」。
 遺骨収集の案内をしてくれた従兄弟の話では、1945年6月1日、米軍に包囲された護郷隊が恩納岳から撤退する前日のこと。次兄をはじめ傷病兵は殺され、5人、10人と一カ所に埋められたという。
 従兄弟は「戦争が終わったら、遺骨収集に来るから、義英は一番上に埋めてくれ。みんなと区別できるように頭を逆さまに置いてくれ」と隊長に頼んだというのだ。

事実を歴史の教訓に

 護郷隊の慰霊碑が建立されたのは1956年。78年の慰霊祭に、僕は父と一緒に参列した。隊長が弔辞を述べている時、僕は写真を撮っていた。カメラのレンズ越しに父を見ると、隊長には目を向けず顔を背けていた。
 帰りの車中で、「自分たちは生き残って、他人の子どもたちは殺してしまって」とつぶやく父の声を聞いた。父は従兄弟から次兄が射殺されたことを聞いていたが、精神を病んでいた母のことを思い、家族には黙っていたのだ。米兵に殺されたなら国のためだが、皇軍が殺すのかと思ったに違いない。
 次兄の死について、軍医のせいにするのは誤りだ。根本には陸軍大臣・東条英機の「戦陣訓」の一つ「生きて虜囚の辱を受けず」にある。情報漏洩を恐れ、捕虜になるなと傷病兵に死を強要することにつながった。
 次兄の無念の死を晴らすということは、再び若者を戦場に送らないことだ。若者が殺し殺されることがないよう、少年護郷隊の事実を歴史の教訓にすべきだと思う。
(高江洲さんの手記を編集部で加筆、修正しました)


※1 沖縄戦 1945年3月26日から始まり6月23日に終了した主に沖縄本島の地上戦。死者は日米合わせて約20万人。県民の4人に1人に当たる12万人が亡くなったとされる。6月23日は「沖縄慰霊の日」になっている
※2 護郷隊 日本で唯一の少年ゲリラ部隊。兵員不足を補うため、14歳から18歳の若者約1000人が召集され、沖縄で米軍と凄惨な戦いを繰り広げた。大本営直轄の「残置諜報部隊」で、沖縄の日本軍本部壊滅後も情報収集を担った
※3 NHKの取材 護郷隊を取材したNHKスペシャル「あの日、僕らは戦場で~少年兵の告白」が、2015年8月11日に放送された。同名の書籍が新日本出版社から発刊されている

いつでも元気 2020.10 No.347

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