民医連新聞

2021年11月16日

あれから10年 私の3.11 ⑱あの日の記憶、再稼働は絶対反対 茨城保健生協東海支部 大川 眞一

 あの大地震の日、私は茨城県那珂(なか)郡東海村にある日本原子力研究開発機構の原子力科学研究所内の、ある施設の解体作業にかかわって、地下3.5mの穴の底で仲間と除染後の放射線測定作業をしていました。いきなり地面が大きく揺れだし、これは尋常な揺れではないと感じた私たちは、「早く上に上がれ」と互いに叫びながら、急いで備え付けのはしごを必死に上りました。土留め用の矢板が崩れれば、生き埋めになってしまいます。
 急ぎ居室のある建屋に戻りました。緊急避難場所に指定されている建屋の前の広場には、多くの人が集まっていました。大きな余震が何度もあり、そのたびに、私はその場に座り込みました。居室の机の上の書類はあちこちへ吹っ飛び、パソコンも床に落ちていました。
 建屋の裏の方を見た私の目に飛び込んできたのは、高さ50mのコンクリートの排気筒が真ん中から折れ、折れた上の部分が地面に逆さに突き刺さっている光景でした。職場の事務の女性は、その夜、道路の混雑を避け、日立市の自宅まで歩いて帰ったそうです。
 東京電力福島第一原発の水素爆発の映像が何度も流されました。原子力の仕事に携わってきましたが、まさかこのような映像を見ることになるとは…。原発が絶対安全だとは決して思っていませんでしたが、原発過酷事故が実際に起きることを目の当たりにしました。
 福島第一原発事故後、地震で壊れたわが家の2階の屋根瓦を集める作業をしました。数日後、職場に出勤し、汚染検査をしました。案の定、髪の毛が汚染していました。一般の人は、汚染していることを確認できないので、わからなかったと思いますが、放射性プルームが流れて行った方向に住んでいた人は、みなさん、汚染されたのです。多くの人が放射性プルームを吸い込んで、内部被曝もしました。
 原子力の世界で長年生きてきましたが、放射能の怖さをあらためて知りました。
 3.11を体験して、東京電力東海第二原発の再稼働には絶対反対です。第一に、事故時、30km圏内に住む94万人の住民が誰一人被曝せずに安全に避難できるとはとても思えません。第二に、避難できたとして、それで本当にいいのでしょうか。過酷な避難所生活でいのちを失い、ふるさとを失い、財産を失い、家族を失い…。福島第一原発事故の教訓が生かされていないと痛感します。再稼働を阻止するため、みなさんと力を合わせていきたいと思います。

(民医連新聞 第1749号 2021年11月15日)

お役立コンテンツ

▲ページTOPへ