いつでも元気

2022年6月30日

神々のルーツ 
“お稲荷さん”と秦氏

文・写真 片岡伸行(記者)

秦伊呂具の兄・秦都理が創建した松尾大社(京都市西京区)松尾山の麓にある

秦伊呂具の兄・秦都理が創建した松尾大社(京都市西京区)松尾山の麓にある

第7回 伏見稲荷大社、広隆寺、松尾大社

 祈りの場から日本の成り立ちを探るシリーズ。
 「国」という概念が希薄だった遠い昔、朝鮮半島から列島に多くの人が渡来しました。
 その有力氏族の代表格が漢氏と秦氏。
 今回は“お稲荷さん”を興した秦氏を紹介します。

 パワースポット「千本鳥居」で知られる京都市の伏見稲荷大社は、全国に約3万社ある“お稲荷さん”の総本宮。ヤマト王権と天皇家が重視した「上七社」の一つです。
 社伝によれば、奈良時代初めの711年に秦伊呂具が創建。伏見稲荷大社はその前史で〈秦氏は朝鮮半島の新羅地方の出身であろうと考えられています〉と記しています。新羅語で「ハタ」とは「海」のこと。半島から海を渡って来た人との意味が込められているようです。※1

稲荷は「伊奈利」

 稲荷は元々「伊奈利」と書きました。『山城国風土記』逸文にこうあります。
〈伊奈利と称するゆえんは、この地に古くから住む秦氏族の伊呂具が餅を的にして矢を射ったところ、餅が白鳥と化して飛び立ち、山の峰に降り、そこに稲が成ったので社名とした〉。
 これが伊奈利社の起こりを説いた最も古い記録です。伊奈は「稲」で、「利」という字は穂先の垂れた植物(=禾)を、鋭い刃物(=刂)で刈り取る様子を表しています。つまり稲の収穫です。
 実際、伏見稲荷大社のある京都市伏見区深草は京都盆地でいち早く稲作が始まった地。2000年余り前の弥生中期の農具(鍬・鋤)や焼けた米などが、深草弥生遺跡から出土しています。
 伏見稲荷大社発行の『稲荷百話』に、秦伊呂具は山城国葛野の県主(県の首長)賀茂久治良の子との記述があります。前号で神武※2と新羅の関係に触れましたが、『山城国風土記』逸文によれば、賀茂氏は神武の東征を先導した人物。秦氏と同じく新羅系なのでしょう。賀茂氏の氏神を祀るのが京都市で最も古い神社で上七社の一つ、上賀茂神社と下鴨神社です。秦一族の足跡はこれだけではありません。

機織りの「ハタ」

 秦氏の「ハタ」とは機織りのハタとも言われ、蚕を飼育し絹織物の技術を列島に伝えました。京都市の四条大宮駅から嵐山駅を結ぶ路面電車・嵐電に蚕ノ社駅があり、その隣が太秦広隆寺駅です。
 『日本書紀』(雄略天皇、470年)に、宮仕えをしていた秦酒君が絹の布をうず高く積み上げて朝廷に献上したので「太秦」の姓を賜ったと記されます。映画村で知られる京都市右京区太秦の地が秦氏の本拠地。太秦広隆寺駅の向かいに京都最古の寺院である秦氏の氏寺・広隆寺(別名・秦公寺)があります。
 渡月橋の架かる桂川の畔、嵐山三山の一つ松尾山の麓にあるのが、上七社の一つで「酒造の神」で知られる松尾大社。伏見稲荷大社を興した伊呂具の兄・秦都理が701年に創建しました。

山城は「秦の国」

 前号で紹介した銅の精製をはじめ、稲作、絹織物、酒に至るまで多岐にわたる秦一族の影響力を伝えた記述が、岡山県吉備郡教育会発行の『吉備郷史』(永山卯三郎著、1937年)にあります。
〈大和の如きは事実上、漢人の国。山城は事実上、秦の国〉
 漢氏は朝鮮半島南部にあった小国・安耶(安羅)から来たとされる有力氏族です。つまり、ヤマト王権の中心地・大和(奈良)と山城(京都)の地を事実上支配していたのは、半島からの移住者である漢氏と秦氏だというのです。
 大阪府寝屋川市にも太秦の地名があり、秦一族の拠点の一つでした。神奈川県秦野市は古墳時代末期(7世紀ごろ)に秦一族が開拓した地との説もあり、全国各地にその足跡が残っているのです。(つづく)

※1上田正昭著『帰化人』(中公新書)、金達寿著『日本古代史と朝鮮』(講談社学術文庫)などに詳しい

※2日本神話上の初代大王。実在したかどうかは不詳

いつでも元気 2022.7 No.368

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