いつでも元気

2022年5月31日

神々のルーツ 
新羅からやって来た神々

文・写真 片岡伸行(記者)

宇佐神宮(大分県)

第6回 香春神社、現人神社

 神社の歴史から見えてくる日本の成り立ち。
 前号で紹介した大分県の宇佐神宮と同様に、朝鮮半島にあった国・新羅と縁の深い神社が、古代の豊前国にあります。その一つに
 天皇家のルーツに関わる伝承が残されていました。

 石灰岩でできた三つの峰。〈♪月が出たでた月が出た〉と「炭坑節」で歌われる香春岳は、五木寛之著『青春の門』の舞台にもなりました。「新羅の神が祀られる山」と言われ、祀ったのは前号で紹介した新羅系の辛嶋氏とされます。
 その麓(福岡県田川郡香春町)にある香春神社は709年の創建。古代の豊前国(福岡県東部と大分県北部)にあって、平安時代以前は宇佐神宮より格上でした。主祭神は辛国息長大姫大目命。辛国(韓国)、すなわち朝鮮半島からやって来た神です。
 この地には古代から鉱山がありました。宇佐神宮が造営に協力した奈良の大仏(盧舎那仏像)にはここで産出された銅が使われ、宇佐神宮の御神鏡もここで鋳造されました。次号で紹介する新羅系の「秦氏」一族の技術集団が、高度な技術で精製したとされます。ちなみに、奈良の大仏のある東大寺を開山した僧・良弁は百済系で、大仏殿東隣の丘陵地には寺建立に貢献した百済系移民を祀る辛国社が建っています。

最澄の言葉

 香春神社が創建した8世紀ごろ、各地方の歴史や文物・産品などを記した『風土記』が編纂されました。『豊前国風土記』は現存していませんが、後世の書物や文献にその記述が断片的に引用されています。その中に香春神社の記述があります。
〈昔者、新羅の国の神、自ら渡り到来りて、此の河原に住みき。便即、名付けて鹿春の神と曰う〉。
 昔、新羅の国の神が自ら渡って来てこの河原に住んだので香春の神という、との意味です。香春町役場前に建つ石碑に、この記述が紹介されています。
 前号で紹介した『八幡宇佐宮御託宣集』11巻に、天台宗の開祖で渡来系とされる最澄の言葉が記されています。804年に遣唐使の一員として唐へ渡った最澄は、出港前に宇佐神宮で航海の無事を祈願。その際、次の言葉を残しました。
〈此より乾方に、香春と云ふ所に、霊験の神坐まさしむ。新羅の国神なり。吾が国に来住す。新羅、大唐、百済の事を、能く鑒知せらる。其の教を信ずべし〉。 
 ここより北西の香春にいる神は新羅の神でわが国に移り住んだ。新羅や百済、唐のことに詳しいからその教えを信じなさい、との意味です。

神武4兄弟と新羅

 香春町を走るJR日田彦山線の採銅所駅から約1kmの山間にある現人神社には、天皇家のルーツに関わる古文書が伝わります。香春町教育委員会が保管する『現人神社略縁起』(林家文書)には、主祭神の「都怒我阿羅斯等」は朝鮮半島南部にあった「加羅国の王子」で、初代大王とされる神武の兄・御(三)毛入野の子孫であり、〈御毛入野は新羅の国王〉と記されます。 
 『日本書紀』によれば、神武は4人兄弟で一説では末っ子。長男・五瀬がいわゆる神武東征中に死亡し、他の2人の兄「稲飯と三毛入野」は〈海に入って常世に渡った〉と記され、その後の消息は不明です。ところが、平安時代に編纂された『新撰姓氏録』に、新羅の当て字と思われる「新良貴氏」の祖先は神武の兄・稲飯で〈新羅の国王〉と記されます。兄2人が新羅人なら、弟もまた新羅人になるでしょう。
 新羅との縁が深いのは北九州地方の神社だけではありません。明治時代まで1000年余にわたり日本の首都だった京都の神社を見てみましょう。(つづく)

いつでも元気 2022.6 No.367

お役立コンテンツ

▲ページTOPへ