いつでも元気

2022年7月29日

神々のルーツ 
道真の怨霊と天満宮

文・写真 片岡伸行(記者)

修学旅行生でにぎわう太宰府天満宮(福岡県太宰府市)

修学旅行生でにぎわう太宰府天満宮(福岡県太宰府市)

 「学問の神様」で知られる菅原道真を祀る天満宮は全国に約1万2000社、「八幡さん」「お稲荷さん」に次いで多い神社です。
 しかし、道真が祀られたのは学問に秀でていたからだけではありません。

 平安時代の845年に生まれた道真は32歳で文章博士となり、朝廷の文人社会の中心的存在に。53歳で醍醐天皇の右大臣に昇進します。ところが2年後の901年、天皇への謀反を企てたとして都から筑前国(福岡県)の軍事・外交機関「太宰府」に左遷。事実上の流刑で、子ども4人も島や辺境の地に流罪になりました。文字通りの一家離散ですが、冤罪説もあります。
〈東風吹かば にほひをこせよ梅花 主なしとて春を忘るな〉
 深い哀切感が漂うこの和歌は、道真が左遷前に詠んだものです。
 道真は太宰府の地で失意と絶望のうちに57歳で死去。その亡骸を引く牛車の牛が臥して動かなくなった場所に、墓が建てられたとの逸話があります。道真の墓所の上に903年に創建したのが太宰府天満宮(福岡県太宰府市)です。
 ところがその後、関係者が次々と不幸な死に見舞われ(別項)、左遷を恨んだ道真の怨霊の仕業とされます。“道真の祟り”を鎮めようと、947年に建てられたのが北野天満宮(京都市上京区)です。学問の神様とは趣が違いますが、合格祈願の際には道真の無念に思いを馳せてみるのもよいでしょう。

ルーツは百済系「土師氏」

 道真のルーツは朝鮮半島にあります。大阪府藤井寺市には百済系とされる葛井氏の氏寺・葛井寺があり、それが市名となっています。近くの辛国神社は、ヤマト王権成立前からこの地に根を張っていた物部氏の一族・韓国広足が祖先を祀った神社。一族が韓国であれば物部氏も朝鮮半島出身でしょう。
 近鉄南大阪線・道明寺駅近くにある道明寺天満宮は道真の叔母が住んでいた場所で、道真の第二の故郷でした。古くは土師神社と呼ばれ、境内には元宮の土師社が建っています。実は、この「土師」が道真のルーツです。
 『続日本紀』(781年)に、道真の曽祖父にあたる土師古人が桓武天皇に「居住地である大和国添下郡菅原邑にちなんで、土師から菅原に改姓したい」と願い出て、これを許されたとの記述があります。添下郡菅原邑は現在の奈良市菅原町で、ここにも菅原天満宮があります。

桓武と道真をつなぐ縁

 土師氏は朝鮮半島から移住した百済系の一族で、埴輪や古墳の造営に携わりました。土師とは字の如く土木技師のこと。一族は世界遺産の「百舌鳥・古市古墳群」(4世紀後半から5世紀後半)の造営にも関わったとされます。また古墳時代の素焼き土器を土師器と呼び、その名が残ります。
 土師一族の土師真妹と、百済王の子孫とされる和乙継の娘が高野新笠。『続日本紀』には新笠が桓武天皇の母であると記されています。菅原姓を許した桓武と道真は共に百済系の縁でつながります。次号以降で紹介しますが、大阪の地は百済との関係がとても深いのです。(つづく)

道真の祟り

・右大臣・源光が鷹狩りの際、泥沼に落ちて溺死(道真は左遷前に右大臣を務めた)
・道真左遷の首謀者とされる左大臣・藤原時平を後ろ盾にした保明親王(醍醐天皇の第2皇子)が19歳で急死。醍醐天皇は「道真の怨霊による仕業」とし死後に道真の太宰府追放を撤回するが、皇太子となった慶頼(藤原時平の外孫)も2年後に5歳で死去
・930年に醍醐天皇の清涼殿に落雷があり多数の死傷者。犠牲者の中には時平に命じられ道真の監視役を務めた藤原清貫もいた。惨状を目の当たりにした醍醐天皇は体調を崩し3カ月後に死去

大阪府の藤井寺市と堺市、羽曳野市にまたがる古代日本列島の王たちの墓群。幅500mにも及ぶ墳丘もあり、世界でも独特な鍵穴型の前方後円墳が多数集まる

いつでも元気 2022.8 No.369

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