民医連新聞

2008年3月3日

絵本が語る 3・1ビキニ被ばく 「危機・勇気・行動」 原水爆禁止運動の出発点に

 日本の原水爆禁止運動の出発点となった三・一ビキニ事件(*)。今年のビキニデー集会は五五回目をむかえました。アメリカやアジ ア諸国の反核平和活動家が交流し、核兵器廃絶を考え、行動する大切な機会になっています。政府は、反核運動に背を向け、米国の核戦略にあくまでも同調して います。この事件を物語にして、二〇〇六年に絵本『ここが家だベン・シャーンの第五福竜丸』を出版したアーサー・ビナードさんに話を聞きました。

ありえないあらすじ

 三・一ビキニ事件が紹介される時、だいたいこんな流れになります。
 「一九五四年三月一日、木造の遠洋マグロ漁船の第五福竜丸が、南太平洋で操業中に水爆実験に遭遇、死の灰を浴び、二三人の乗組員が被ばく。無線長の久保山愛吉さんが半年後に亡くなった」といったあらすじです。
 アメリカで生まれ育ったぼくは、このあらすじが不思議で、どうにも腑に落ちませんでした。水爆実験は当然、アメリカ国防総省(ペンタゴン)の軍事機密で す。「それを目撃した人たちが、どうして生きて帰れたのか? ペンタゴンが帰すなんてありえない。撃沈するはず」。ペンタゴンが今まで何をしてきたかを多 少知っているアメリカ人として、そんな疑問がわきました。

人類の生き証人

 「水平線にかかった雲の向こう側から、太陽が昇る時のような明るい現象が三分くらい続いた」。 無線長の久保山さんは、爆発時の様子をそう語りました。しかし、助けを求めたり、被害を受けたことを無線で母港に知らせようとはしませんでした。傍受され たら自分たちが攻撃目標になるかもしれないと察知したからです。
 仲間に「船や飛行機が見えたら知らせよ。その時はすぐ焼津に無線を打つ。そうでなければ無線は打たない」。久保山さんは戦時中、徴用船に乗って、敵艦の 偵察などをさせられていました。その経験から、無線が傍受されることは分かっていたのです。
 ビキニの海で「死の灰」を浴びた二三人は、吐き気と頭痛に苦しみ、髪は抜け、顔は黒ずんで、二週間も耐えて自力で焼津に帰り着きました。
 そして自分たちの体験を語り、水爆実験被害の生き証人になりました。人類の滅亡につながりかねない軍事機密の真相を、世界に知らせたのです。
  彼らの勇気と行動がきっかけとなり、世界的な原水爆禁止の運動が始まりました。

現在進行形の物語

 ベン・シャーン(一八九八~一九六九)は、二〇世紀のアメリカを代表する画家の一人。人間の営みを見つめて、語り部の役割を果たしました。差別と貧困、えん罪事件も果敢に描いた大家です。
 ベン・シャーンが最後の大連作でとりくんだのは、第五福竜丸でした。「久保山さんはあなたや私と同じ、一人の人間だった。第五福竜丸のシリーズで、彼を 描くというよりも、私たちみなを描こうとした」と、書き残しています。
 彼の絵は優しく細やかでありながら、とても力強く、雄大な物語の本質をとらえています。そのすばらしい絵と綱引きしながら、ぼくも語るべき本質をさぐって言葉を紡いでいきました。
 核実験は二千回以上も行われ、劣化ウラン弾というもう一つの核兵器も大量に使われています。ビキニ事件は、昔のできごとではなく、現在進行形の物語で す。しかし、この事件が忘れられるのをじっと待っている人たちがいます。
 人間がつくった核兵器は、人間が無くせるに決まっています。これは、私たちが日々忘れてはいけないことです。みんなが立ち上がれば、核兵器をなくすこと は可能です。無くす以外に、私たちに選択肢は残されていないのです。

アーサー・ビナードさん(詩人)

 1967年、アメリカ生まれ。コルゲート大学で英米文学を学び、卒業と同時に来日、日本語での 詩作を始める。詩集『釣り上げては』(思潮社)で中原中也賞、『日本語ぽこりぽこり』(小学館)で講談社エッセー賞、『左右の安全』(集英社)で山本健吉 文学賞を受賞。現在、週刊現代や日経新聞に連載中。青森放送と文化放送でラジオパーソナリティーもつとめる。

(*)三・一ビキニ事件…一九五四年三月一日未明、アメリカ国防 総省は太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁で、水爆実験(ブラボー)を行った。広島型原爆の一〇〇〇倍の爆発力だった。その放射能は太平洋からインド洋にい たる広大な海域を汚染し、静岡県焼津を母港とするマグロ漁船「第五福竜丸」をはじめ、多数の日本漁船やマーシャル諸島島民に大きな被害をもたらした。

(民医連新聞 第1423号 2008年3月3日)

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