民医連新聞

2009年1月5日

いま活かそう人間裁判 朝日訴訟の原点をソーシャルワーカーと訪ねて

  いま全国各地で「生存権裁判」がたたかわれ、民医連も支援しています。「生活保護の老齢加算・母子加算廃止は、不当」と訴えたものです。このたたかいの原 点は「人間裁判」と言われた朝日訴訟。約五〇年前、生活保護を受給しながら結核療養所で闘病していた朝日茂さんが「保護費が低すぎて、最低限度の生活すら 送れない。憲法違反だ」と国を相手にたたかった裁判です。裁判支援は大きな運動になり、その後の生活保護行政や、社会保障充実に大きな影響を与えました。 今回、若い職員の代表として岡山民医連・玉島協同病院のソーシャルワーカー(SW)、福井真知子さん(四年目)といっしょに朝日訴訟の意味を取材しまし た。(佐久 功記者)

若い人も支援した裁判

 取材一日目。「NPO法人朝日訴訟の会」を訪ねました。会では、朝日訴訟を後世に伝えようと、残された膨大な資料を整理・分類しています。会長の岩間一雄さん(岡山県社保協会長、岡山大学名誉教授)に話を聞きました。

 まず朝日さんを苦しめた結核の療養の話をしましょう。当時ストレプトマイシンという特効薬がありましたが、高くてなかなか使えなかったんです。だからたくさん食べて、結核菌に打ち勝つ体力をつけるしかなかったんですね。
 当時の療養所の患者食、粗末ですよ。病気で食欲がない上、おいしくなくて時間内に食べきれない。それでご飯、おかず、汁を弁当箱に移して、時間をかけて食べるんです。それくらい食べることに必死だったんです。
 だから食欲がわく副食が必要だったけど、当時の生活保護の日用品費は月にわずか六〇〇円。副食代にまで回せない。それで朝日さんは裁判を起こすんです。

 六〇〇円は、年にパンツ一枚、ちり紙一二束、肌着は二年に一枚などしか買えないような低い額で計算し、決められていました。

 訴訟のきっかけですが、福祉事務所が身内を調べ、お兄さんが九州にいることがわかると、「朝日さんに月三〇〇〇円送れ」と言ったんです。
 お兄さんも、生活が楽じゃないからとても無理。それでも苦労して一五〇〇円を送ったんですね。
 それで福祉事務所がどうしたか。一五〇〇円のうち、朝日さんへ六〇〇円を渡し、その分生活保護費から六〇〇円を削りました。残りの九〇〇円は、結核療養所の治療費自己負担分として徴収してしまいます。
 これでは朝日さん、怒りますよ。お兄さんが苦労させられただけですよね。

 こうして裁判をたたかいますが、批判・中傷も出てきます。
 日雇い労働者が「私は汗水たらして働いても少ない賃金しかもらえないのに、あなたはベッドで何もせず、ちんたらして、六〇〇円で足りんとは何ごとだ。三 食もらって、結核の治療までしてもらって。恥ずかしいと思いなさい」。こういう投書が来たんです。
 いまだって、同じようなことを言う人がいますよね。
 で、朝日さんはそれにどう答えたか。「その気持ちはわからんではないけど、苦労している者が足を引っ張り合ってどうするんだ。私たち(生活保護)のレベ ルが上がるということは、労働者の給与水準も上がることなんだ。みんなで力を合わせて良くしていきませんか」と。これは、いまでも必要な考え方ですよ。
 朝日さんは、運動を広げる上ですごく神経を使っているんですよ。「小さな違いは乗り越えて、何とかいっしょにやろう」と、手紙を書きまくるんですね。

 朝日さんは、このように裁判を通じて、苦しんでいるすべての人たちが権利意識にめざめ、人間らしい生活を勝ち取っていくことをめざしました。
 この後、生存権、憲法二五条を根拠に、人間らしい生活を勝ち取る社会保障推進の運動が大きくなっていきました。

 朝日訴訟には、若い人たちがたくさん参加しました。主任弁護士の新井章さんは二六歳、朝日訴訟中央対策委員会事務局長の長宏さんは三四歳でしたしね。朝日訴訟の会には、当時の若い人たちの思いを伝える資料がたくさん残っていますよ。
 例えば高校生から朝日さんへの手紙。「あと数カ月で卒業するけれども、この半年間、毎日を朝日訴訟とともに明け暮れた」とか、「文化祭で署名を二〇〇〇 人分集めたい」とか書いてある。これらの手紙には、彼らの青春が詰まっているんですね。

 なぜ朝日さんは国を相手に裁判を起こす気になれたのか。しかも、国民の権利の問題としてたたかったのか。
 実は、訴訟以前から療養所や労働組合など、いろんな人といっしょに、国や自治体に対する待遇改善の運動など、ずっとやっていたんですね。
 それで、こういう仲間に相談したら、「泣き寝入りしちゃいかん、やはりこれを一つの社会問題にしよう、裁判闘争にしよう」と励まされたんじゃないですかね。そういう仲間がいたことで、立ち上がったんだと思いますね。
 いまもたいへんな時代です。でも何とかしなきゃと思っている人はたくさんいるはずです。そういう人たちと、もっとつながっていくことが大事だと思いますね。

手紙を書き続けた朝日さん

 二日目に訪ねたのは、足立初枝さん (94)。現在は、老健あかね(倉敷医療生協)に入所中です。朝日さんと同時期に療養所に入所し、朝日さんを陰からささえた人です。国を相手に、死ぬまで たたかった朝日さんはどんな人だったのか? 人柄や当時の療養所の様子を聞きました。

 私は軽かったけど、戦争直後に入所して、五年八カ月も療養所におったんです。昔は薬も何もなくて、ただ安静と栄養。もう気の長い話ですわ。
 食事は麦が入ったご飯でね。味噌汁なんか、ダシもなくてお湯へ味噌を溶かしたようなものです。そりゃ、おいしゅうない。
 それで、朝日さんの発案で、療養所の炊事小屋で味噌汁をつくってほかの患者に売っていました。おいしかったですよ。療養所も黙認でしたわ。

 当時の療養所では、お互いにお金を工面するため、味噌汁を売ったり、繕い物、貸しラジオなどもしていました。

 朝日さんの結核は、かなり重かった。だけど気力があって、よく本を持って、歩いてましたわ。
 かなり悪い時でも東京の「日本患者同盟」の中央委員じゃったんですが、よく行きよった。もう本当に情熱を傾ける人じゃからね。
 朝日さんは「カラスが鳴かん日があっても、わしの血痰は出ん日はない」と言うて、笑わせるんです。ユーモアがある人ですな。でもグチとかは一つも言わんの。
 付き合ったらおもしろいし、好かれるわな。それでいて、芯のあることを言うとるからね。私も感化されたわな。
 また訴訟を起こしてからは、手紙がようけ来たんです。その返事を毎日書くんですよ。それに激励に来る人が多くてね。「激励に来たのに激励されてしもう た」と、なかなか帰らんの。しんどかったと思いますよ。だけど一生懸命じゃから。前へ前へすすんでいく人じゃからね。

二五条を守る大切さ実感
福井 真知子

 いまは社会保障の予算がどんどん削られるような時代。それを食い止めて前進させる大きな運動ができないものかと思いました。
 朝日さんの時代は、若い人たちが運動を盛り上げていました。「社会保障はたたかって勝ち取ってきたもの」なんですね。こういうことを、周りの人にもっと知らせていかなければ。
 「一日の食事は二回だけ」「お金がなく葬式に行けない」。生活保護の老齢加算廃止後に調査した時、すごく厳しい生活だとわかりました。まるで朝日さんの 時代です。私たちの世代も「給料が安くて結婚できない」とか「解雇と同時に住居も失った」人がいます。
 私はSWですが、先輩は「私たちの仕事は、憲法二五条を守る仕事だ」と言いました。もっと人権感覚を磨いていきたいです。

朝日訴訟

 1957年、結核で加療中だった朝日茂さん(1913~1964)が、当時の貧困な生活保護費では憲法25条に書かれている「健康で文化的な最低限度の生活」を維持することはできないと、国を相手に起こした訴訟。
 国民の生存権の保障をめぐり争われた最初の行政訴訟で、「人間裁判」と呼ばれた。
 一審は勝訴(1960年)、二審で敗訴(1963年)。朝日さんの死後、養子になった朝日健二さんが訴訟を引き継いだ。1967年に最高裁は、朝日さんの死亡を理由に継承を認めず、裁判は終了した。
 勝利した第一審の判決では「健康で文化的な最低限度の生活とは『生物として、かろうじて生存できる程度の生活ではなく、人間らしく生活できるもの』でな ければならない」として「保護費は低すぎる」とした。さらに「国家には、人間らしい生活を保障する義務があり、財源のあるなしではなく、優先的に配分すべ き」とした。
 民医連も、現地の岡山民医連を先頭に、訴訟を積極的に支援した。
裁判中に生活保護費が大幅に引き上げられるなどの成果があり、また、その後の社会保障運動に大きな影響を与えた。

 

生存権裁判

 国は2004年度から、生活保護の老齢加算・母子加算を削減、廃止した。
 2005年、京都市の松島松太郎さんが、生活保護の老齢加算の廃止に抗議して提訴。その後、各地で訴訟が起こり、現在、北海道・青森・秋田・東京・新 潟・京都・兵庫・広島・福岡の九カ所で、100人以上が原告となり、たたかわれている。これは「生存権裁判」「第二の人間裁判」と呼ばれている。

(民医連新聞 第1443号 2009年1月5日)

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