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2016年4月5日

民医連のリレー 岡山で救った命→熊本へ

 新入職員の皆さん、ようこそ。民医連事業所は全都道府県にあり、8万人を超える仲間がいます。今号は民医連らしいエピソードを。昨年、岡山県の路上で倒れていた男性を民医連の病院が全国のネットワークを生かして支援し、男性が望んだ故郷での生活を実現しました。いまその熊本で民医連診療所が、新しい人生を踏み出したその人に伴走しています。

(丸山聡子記者/木下直子記者)

救われた命―熊本

 「故郷の桜は何十年ぶり。一年前は岡山の病院でオムツをしていた…」。笠立光輝さん(76)は目を細めました。熊本市でひとり暮らしをする笠立さんの楽しみは読書です。「時代小説が好き」と笑います。一年前は想像もできなかった穏やかな毎日。「人間やめようかなと思ってたんです」と、笠立さんは振り返りました。
 北海道の炭鉱や長野の工場など、日本中で働きました。しかし年をとり、仕事も住まいも失い、「最後」と決めて帰郷。その後、国道沿いを歩くうちに身体が動かなくなり、気づけばベッドの上。「助かった命、粗末にしたらいかんよ」と医師が言いました。

地図

救った手―岡山

 笠立さんは新倉敷駅前で倒れ、昨年二月一一日に玉島協同病院(倉敷医療生協)へ搬送されました。「病室で初めてお会いした時は、髪もヒゲもぼうぼうで目に力がなく、飲まず食わずだったと分かりました」と支援を担当した同院のSW(ソーシャルワーカー)八谷直博さんは振り返ります。脱水、低栄養、貧血、低体温。強い人間不信でおびえる笠立さんに八谷さんは粘り強く接しました。
 数日経って、笠立さんは、少しずつ身の上を話してくれました。ものごころついた頃には、兄たちまで働いていた貧しく寂しい子ども時代。自身も中学卒業後に奉公に出て以降、建設現場など住み込みの仕事をして生きてきたこと。高齢では仕事が減るので、名を変え年を若く偽り働き続けたものの、偽名では健康保険に入れず、医療は自費だったこと。やがて仕事がなくなり、蓄えを使いきったこと。最後と決めた帰郷の後は、役所でひと駅分の電車賃をもらったり、通りがかりの車がくれたミカンを食べたが、瀬戸内でも真冬は雪が降って寒かったこと…。
 「幼い頃から貧しく、無年金で、年をとっても働かなければ生きられない境遇で、さぞ不安だったでしょう」と八谷さん。治療して徐々に生きる力を取り戻した笠立さんは「兄のいる故郷・熊本で暮らしたい」と口にしました。

もう一度人生を

 入院からひと月ほどでリハビリが始まり、病室に呼びにくる職員の熱心さにおされて笠立さんはがんばりました。窓から桜が見える頃、院内を歩けるようになると、リハ職員から「お寺の桜を見に行きましょう」と声がかかりました。翌日は池の周りを一周、その翌日はスーパーまで。リハは、退院後の自立も意識して、生活リハが取り入れられました。
 一方、八谷さんは、生活保護の申請をはじめ、笠立さんの生活再建に向け奔走。「お金なし、保証人なし、元ホームレス」という人の熊本での再出発を、岡山から準備するのは容易ではありませんでしたが、入れる古いアパートが見つかりました。行き来が絶えていた笠立さんの兄にも八谷さんが手紙を書き、関係修復を仲介。アパート周辺の地図や間取り図を笠立さんと一緒に広げ、新生活をイメージできるようにもしました。
 熊本での医療や見守りは、やはり民医連に託したいと名簿を開くと、アパート近くに事業所が。それがくすのきクリニックでした。八谷さんの電話を受けたのが中尾恵子看護師長です。「いいですよ」の即答に、八谷さんは安堵。「民医連の仲間の相談ですから。たいへんな人にこそ力になりたいと思ってますから」と中尾さん。

* * *

 昨年五月、岡山から移った直後の笠立さんは言葉少なく、引きこもりがちでした。診療所職員は姿を見ると必ず声をかけました。事務長の井上晋さんは携帯電話を持たない笠立さん宅にこまめに顔を出し、友の会に誘いました。旅行やクリニックのふれあい昼食会に参加するようになった笠立さんは「知り合いが増えるのはいいね」「こんなに親切な病院があるんだね。それも岡山と熊本で。恩返ししたい」と語っています。
 玉島協同病院には笠立さんのような人が時々搬送されてきます。他県の仲間との連携で救うケースも何度もありました。「会った事がなくてもつながってますね」と八谷さん。「人生のピンチは誰にでも起きえます。その時の姿や情報で人を判断してはいけない。人は変わるんだと分かるのが、僕らの仕事の楽しいところ。患者さんに教えられる日々です」。

(民医連新聞 第1617号 2016年4月4日)

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