民医連新聞

2023年11月7日

大阪地裁判決を力に水俣病の全面解決へ 第2次近畿訴訟

 9月27日に大阪地裁が原告勝訴判決を出した、ノーモア・ミナマタ第2次近畿訴訟(判決概要は10月23日付2面参照)。たたかいの経過と今後について、原告らをささえ、ともにたたかってきた、熊本民医連の原田敏郎さん(事務)の寄稿です。

■長く、 粘り強いたたかい

 9月27日、午後3時過ぎ、原告勝訴を知らせる旗が掲げられ、裁判所前は歓喜に包まれました。大阪地方裁判所が原告128人全員を水俣病と認める画期的判決が、原告、支援者らに伝えられた瞬間でした。法廷で裁判長は、「長い間、ご苦労様でした」と、原告の労をねぎらいました。
 ノーモア・ミナマタ第2次近畿訴訟は、2014年9月に第1陣原告19人が提訴して始まりました。同種訴訟は、熊本や東京、新潟でもたたかわれており、原告数は4地裁で計1760人です。
 原告らは漁業の崩壊や集団就職などで、関西、中部、中国地方などに移住してきた熊本や鹿児島からの居住者たち。チッソが排出したメチル水銀を含んだ魚介類を日常的に食べ続け、水俣病になりました。生きるために魚を食べることは普通のことで、魚しか食べるものはなかったと言います。
 ある時から手足のしびれに苦しみ、口周囲のしびれで食べ物をこぼしてしまうので、友達との食事さえ躊躇(ちゅうちょ)する人生。常に震えやしびれがあり、思うように作業ができないので、仕事も長く続けられませんでした。それでも自分の症状が水俣病と結びつかなかった人はたくさんいます。水俣病特措法の情報も届かず、申請すらしなかった原告もいます。
 地元の世話人や家族、友人からの勧めで検診を受け、水俣病と診断され、自分の体の不調の原因が水俣病であることを知ります。被害者は立ち上がり、訴訟が始まりました。それが今回の裁判です。

■連帯の輪は全国へ

 公正判決を求める署名は、全国から45万筆が寄せられています。大阪地裁へは昨年3月2日以降12回にわたり、13万筆を提出。同団体署名は、短期間で2740団体から寄せられました。
 1年かけて行われた原告30人の本人尋問が、昨年5月に終了。9月26日には、原告らの粘り強い求めに応じる形で、現地進行協議として裁判所が水俣や不知火(しらぬい)海などを訪れる現地視察が実現し、12月21日に結審しました。
 今年9月2日の判決前集会には原告と家族、支援者など100人超が参加しました。そして迎えた9月27日、入廷前集会にはこれまでで最多の180人余りが結集。「勝訴」の旗出しの瞬間は、全国へWEB配信も行いました。
 先行する近畿訴訟での経験は、各地裁でのたたかいに生かされています。判決後に東京で行われた報告集会では、各地の原告から「確信と力をもらった」などの声が。新潟の原告は、近畿訴訟にならい、現地進行協議で裁判所による阿賀野川流域の現地視察を実現できたと報告したそうです。

■一刻も早い被害救済を

 水俣病は、公式確認から67年が経過しています。近畿訴訟の第1陣提訴から数えても丸9年が経過しています。原告は高齢化し、一刻も早い解決が求められます。
 近畿訴訟の原告らは9月27日の判決を受け、大阪市内で記者会見と報告集会に臨んだ後、弁護団とともに東京へ。翌28日からさっそく要請や宣伝を開始し、院内集会では、水俣病被害者とともに歩む国会議員連絡会の議員と懇談。環境省交渉では、控訴をせず被害者と向き合い、解決に動き出すよう強く要請しました。加害企業チッソとの交渉も試みましたが、チッソは会うことすら拒否。10月6日の熊本県交渉にも近畿訴訟原告、弁護団が参加し、解決のテーブルに着くよう強く要望しました。
 しかし、10月4日にチッソが、10日には国と熊本県が、判決を不服として控訴しました。記者会見した原告は、「私たちが死ぬのを待っているとしか思えない」と怒りをあらわにしました。
 ノーモア・ミナマタ訴訟は、来年3月22日に熊本、4月18日に新潟の判決が出ることが決まっています。私たちがめざす「すべての水俣病被害者の救済」を実現するためには3連勝が必須条件です。ひきつづき、全国のみなさんの支援をお願いします。

(民医連新聞 第1794号 2023年11月6日)

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