長野/長野中央病院 信州善光寺平の中心で躍動する 医療・研修・社会保障運動の拠点
3年分の盆と正月が一度に来たような…
国宝善光寺の門前町・長野市は信州の北部、高い山々に囲まれ千曲川と犀川が合流する長野盆地(善光寺平)にあって、38万人余が暮らしています。郊外に は、武田信玄と上杉謙信が死闘を演じた川中島古戦場、第二次世界大戦の悲惨さを物語る松代大本営などが残る歴史のまちでもあります。長野中央病院はその中 心部、繁華街に位置しています。
2004年は、医療機能評価とISO9001の受審(認定)、50床の増床増改築工事着工(今年秋に292床へ)、電子カルテ導入、2つ目のサテライト 診療所オープン、新潟県中越大震災被災者支援活動と、役職員一同、4万人の医療生協組合員とともに、「3年分の盆と正月が一気にやってきたような年だ」な どと語りあいながら奮闘してきました。
住民の爆発的な力、民医連の連帯の力が結実
当院の前身は1961年開設の長野民主診療所です。小児マヒから子どもを守る運動に携わっていた開業医が地域の有志と相談し、「安心して利用でき」「生 活が困る人の力になれる診療所」(開設アピール)として、路地裏にある下宿屋の3部屋を借りてスタートしました。
以後苦節15年を経て、30床の長野協立病院に発展します(1976年)。その翌年、市内2番目の規模の民間病院だった旧長野中央病院が経営に行きづま り、事業継承(譲渡)の話がもちあがりました。当時の長野医療生協は全国ワースト3にはいる赤字を抱えていましたが、大議論の末に買収を決断。年収2億円 の小法人が、新病院建設を含め11億円の大事業に挑戦したのです。その背景には、総合的で高水準の病院が欲しいという地域要求と、新卒医師の研修が自前で できるようにという長野県民医連役職員の悲願がありました。
新事業は困難の連続でした。1億5千万円の融資を約束していた某銀行が土地代支払期限の数日前に「融資がダメになった」と通告してくる状況のなか、地域 住民からの短時日での爆発的な資金結集と、長野県連各法人や山梨勤医協からの緊急の協力で難局を突破しました。新病院建設中は、長野協立病院と旧長野中央 病院の2つの病院の診療維持のため、山梨や東京民医連から20人を超える医師支援をいただきました。1979年10月の新長野中央病院開設(147床) は、まさに、このような地域住民の力、民医連の連帯の力の結晶でした。
長野県下有数の実績をもつ臨床研修病院
翌1980年に、県連の研修センターとして新卒医師受け入れを開始しました。現在では、長野県のなかで有数の医師養成の実績を持つ病院として評価を受けています。
長野中央病院の医療活動は、診療所時代からの伝統である「喘息」「糖尿病」に加え、毎年の医師の着実な参加と研修によって内科各科、外科、整形外科、心 臓外科、小児科、リハビリ科など総合的に発展しています。全日本民医連の2003年医活調査によると、心臓カテーテル検査や上部消化管内視鏡検査件数など 8項目が全国トップクラスになっています。
平和活動や社会保障運動などの分野でも、長野県下で最大の拠点のひとつとして、常に県民・市民から期待されています。
(長野中央病院 事務長 岩須 靖弘)
「民医連院所のある風景」 『民医連医療』2005年7月号.No.395より