80年前の鮮明な記憶と苦しみ 「黒い雨」岡山訴訟で勝訴を
79年前に広島で原爆投下後に降った「黒い雨」を浴びた人の救済対象をひろげた新基準で、被爆者健康手帳の交付を県に申請して却下された岡山市内の女性Aさん(83)が、昨年11月29日、県を相手取り、処分取り消しなどを求める訴訟を岡山地裁に起こしました。12月1日、岡山民医連などが参加する「黒い雨」岡山訴訟を支援する会を結成しました。(長野典右記者)
昨年6月1日、第1回電話相談会で、「新基準で『黒い雨』の救済範囲がひろがったので3月に被爆者健康手帳の交付を申請したが不安」とAさんの相談がありました。電話で対応したのは水島協同病院の太田優子さん(SW)。太田さんは「申請結果がどうなるかわからないが、何か役に立てることはないか」との思いでした。
■SW部会も電話対応
4月20日に「黒い雨」を考える岡山の会を結成の後、2回電話相談活動を行いました。当日、新聞の事前告知で知った人などから3件の電話がありました。相談会には、岡山「被爆2世・3世の会」世話人で元民医連SWの志賀雅子さんや、弁護士の則(のり)武(たけ)透さんも参加し、アドバイスしました。県連のSW部会では、志賀さんを講師に、申請書の書き方、被爆者健康手帳の交付要件など事前に学習会も重ね、電話相談を準備しました。太田さんはこれまで広島民医連でSWをしていました。広島で被爆者支援にもかかわり、岡山で「支援する会」の世話人になりました。「Aさん以外にもまだ救済されるべき人がいるはず」とさらなる掘り起こしをめざします。
■客観的資料ないと却下
7月31日、岡山県はAさんの交付申請を却下(Aさんの証言は(「原告からの手紙」を引用)。「津田町(現廿日市(はつかいち)市)にいたことは確認できるものの、『黒い雨』が降ったことは確認できない。供述内容を客観的に確認できる資料も見当たらない」ことが理由でした。
Aさんは当時4歳。母親と墓地の掃除に出かけ、終わって自宅に帰る途中、東の山がピカリと光り、轟音が響きました。暗くなった空から焼け焦げた紙が舞い落ち、急に雨が降り出しました。お気に入りのピンクの服が黒い雨で真っ黒になり、悲しくなって泣き、母親は「家に帰ったらすぐに洗ってあげるから大丈夫」となぐさめてくれたと言います。2019年8月に自己免疫性肝炎、慢性肝炎などと診断。「鮮明な記憶が残っていても黒い雨にうたれたピンクの服でもない限り、客観的に確認できる資料がない。80年前の客観的資料を残している人などいない。自分の記憶を否定されたような気持ちでショック」と。津田町の同級生が広島地裁に提訴し、Aさんも勇気をふり絞って岡山で裁判を起こすことにしました。
■鮮烈に脳裏に焼きつく
広島の「原爆『黒い雨』被害者を支援する会」の事務局でジャーナリストの小山美砂さんは、「支援する会」の結成総会で講演。岡山に先駆けて提起された広島の第二次「黒い雨」訴訟の内容を紹介しました。被告は、原告らが「雨が降った」と訴える内容について、これまでに作成された3つの降雨域に関する調査や町村史といった資料で確認ができなかったため、その証言の信用性が認められないと主張。しかし、勝訴確定した広島高裁の判決では、大量の飛散降下物や黒い雨の発生と極めて特異な出来事が続いた1945年8月6日の記憶は鮮烈に脳裏に焼きつけられていると考えるのが自然かつ合理的、と判断していることを指摘しました。
■核兵器廃絶のために
弁護団の則武さんは、津田町と新基準の雨域とは近接していること、ピンクの服の話など供述の内容の信用性は高い、多くの津田町の被害者が立ち上がっていることを指摘。日本被団協がノーベル平和賞を受賞し、被爆80年の年、早期解決の必要性と世界で核兵器使用の危険性が高まっているなかで裁判の勝利を訴えました。
Aさんは「ひとたび核兵器が使用されれば私のように80年たっても苦しみが続く。一刻も早く、世界から核兵器がなくなることを切に願っている」と決意をのべました。
「黒い雨」岡山訴訟を
支援する会の寄付先
中国労働金庫 岡山支店
7051925 中川 圭子
(民医連新聞 第1820号 2025年1月6日号)
- 記事関連ワード