診察室から 「民医研」から「民医連」へ
はじめまして。私は青森市と弘前市の中間地点にある内科診療所の所長をつとめています。
私が医学部に入学したのは1970年。ベトナム戦争の最中であり、日本は米軍の補給基地で前線基地でした。最新型の原子力空母が日本から発進し、沖縄からは戦略爆撃機B52がベトナムの空爆に飛び立っていました。当時の日本では「ベトナムに平和を」「日本は戦争に加担するな」「アメリカはベトナムから手を引け」のスローガンを掲げ、革新政党、労働組合、市民、学生がベトナム反戦運動に立ち上がっていました。同時に沖縄の日本復帰運動もたたかわれていました。当時の沖縄には核兵器があるとされ、「核兵器の撤去」「基地のない沖縄の返還」「無条件全面返還」をめざす復帰運動でした。私もいち学生として、集会やデモに参加しました。
1975年、ベトナム戦争はベトナムの勝利で終わります。沖縄は日本に復帰しますが、巨大な基地はそのまま残り、今日のように過剰な基地負担に苦しみ、辺野古への基地建設のゴリ押し、米兵の犯罪、性暴力の被害を受けるなど、悔いが残ることになります。
私は入学してすぐ、新入生歓迎会で大学のサークル「民医研」(民医連運動研究会)に出会い、6年間参加しました。30人くらいの医学生、看護学生のサークルで、夏休みの一週間ほど無医地区の農村に泊まり、健康調査を行うことが活動の中心。フィールド活動と呼び、どんな医師や看護師になるか模索しながら、活動の大切さを学びました。民医研は全国多数の大学にあり、全国民医研集会で活動を交流しました。私は大学卒業後、まったく自然に青森民医連の健生病院に入職。弘前の民医研、全国の民医研からも多くの仲間が民医連運動に参加しました。
あれから50年以上経過し、当時をふり返り、民医研の活動が大切だったと感じています。若い民医連職員のみなさんに、かつて全国に民医研があり、今の民医連に参加していったことを知ってほしいと思います。(石森伸二、青森・津軽医院)
(民医連新聞 第1830号 2025年6月2日号)
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