今こそ伝えなければいけない 俳優・斉藤とも子さん講演 「被爆者と出会って」
交流集会では斉藤とも子さん(俳優・SW)が被爆者の聞き取り調査をしてきた経験から、核兵器の危険性、私たちが未来へ語り継ぐべきことについて講演しました。
(松本宣行記者)
核兵器の存在がどれほど危険なことか、身をもってあらわしているのが、被爆者です。
私は38歳で大学に入学し、同時期に井上ひさしさんの戯曲『父と暮せば』で、被爆者を演じることになりました。原爆投下から3年後の広島が舞台です。私は広島の言葉や風を感じたくて、初めて広島を訪ねました。
お好み焼き店で
一人で市内を歩き、午後3時くらいにお好み焼き店に入りました。他にお客さんはいません。おかみさんから「テレビに出とる人?」と聞かれ、事情を説明すると、4歳で被爆したことを教えてくれました。イメージしていた被爆者と違い、とても明るい人でした。役づくりの話をすると、役と同じくらいの年齢の18歳で被爆した人を紹介してくれました。このお好み焼き店で3人の被爆者に出会いました。
大学で社会福祉を学び、卒論は被爆者の生活史の聞きとりにしました。被爆者の体験は、原爆投下時が中心になることが多いと思いますが、調査は生まれてから被爆までの様子と、被爆したときの状況と、その後どう生きてきたかを聞きとりました。
ご縁はひろがって、被爆者との出会いが増えていきます。そのなかで全日本民医連顧問を務めた医師の肥田舜太郎さん(故人)と出会いました。肥田さんは低線量被ばく、内部被ばくの問題について警鐘を鳴らしていました。
原爆小頭症の「きのこ会」
私は大学院に進学後、石田忠さん(日本原水爆被害者団体協議会専門委員などを務めた研究者)のゼミにいた先輩と出会いました。この出会いが、母親の胎内で被ばくし、障害を負った原爆小頭症の患者やその家族らでつくる「きのこ会」にたずさわったきっかけです。SWの村上須賀子さんから、元・中国新聞の記者で「きのこ会」事務局だった大牟田稔さんの『ヒロシマから、ヒロシマへ 大牟田稔遺稿集』を読むよう、すすめられました。被爆20年後の調査で原爆小頭症の存在をみつけたのは、中国放送の秋信利彦さんでした。秋信さんは取材した小頭症児の母親から「あなたは取材して本にすればそれで終わり。でも私たちはこれから先も生きていかなければならない」と言われます。その言葉を重く受け止めた秋信さんは、原爆投下から20年後の広島を記した『この世界の片隅で』(1965年、岩波新書)の著者、山代巴(ともえ)さんに伝えました。山代さんは「まず、みんなで集まりましょう」と提案し、きのこ会が結成されました。
さらに20年後、SWが参加したことで、きのこ会の家族は、障害、疾病、高齢など、さまざまな福祉施策の利用につながることができました。
きのこ会の母親たちも被爆者です。ぎりぎりまで生きて、亡くなった後、解剖した医師に「こんな状態でよく生きていた」と言われた人もいました。
自分事として
2011年に東京電力福島第一原子力発電所の事故が起きたとき、被爆者たちは自分のこと以上に福島の人たちを心配していました。避難先の学校で子どもたちが差別されていると聞いて「その学校に行って、放射能は移らないからバカな差別はやめろと言いたい」という人もいました。
原発訴訟の裁判の傍聴に行くと、原爆症認定訴訟と同じことがくり返されていて、亡くなった肥田さんや被爆者たちから、「今こそ、あなたが伝えなければいけない」と言われているような気がします。
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斉藤さんは講演後、民医連職員へのメッセージとして「医療・介護従事者は『私は被爆者』と言えない人が存在することを知っていてほしい。これまで語れなかった人が『この人になら』と思えるような人であってほしい。たった一人でも耳を傾け、理解してくれる人がいたら、その被爆者の人生は変わると思う」と語りました。
(民医連新聞 第1833号 2025年7月21日号)
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