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民医連新聞

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戦後80年 平和があるからできる医療ケア 広島・原爆遺構と碑めぐりフィールドワーク 第19回被ばく問題交流集会

 6月14~15日、広島で第19回被ばく問題交流集会を開催しました。1日目の午前中、全日本民医連の反核平和委員会委員長で広島県医療事業協同組合の平井充晴さん(事務)、広島共立病院の櫻下美紀さん(SW)の案内で原爆遺構・碑めぐりフィールドワークを行いました。17人が参加しました。(髙瀬佐之記者)

街をめぐる

 「原爆は、今も昔も変わらない『私たち』の日常の上へ無差別に落とされた、と伝える機会にしたい」。そんな平井さんの思いから、今回は平和公園外の街を中心にめぐります。
 広島市中心部を東西に横断する「平和大通り」別名「100m道路」はその名の通り、横断歩道が100mほどある、とても大きな道路。1944年末から防空対策として実施された建物疎開の跡地が、戦後の都市計画で現在の大きな道路となったものです。8月6日はここで建物疎開をしていた多くの学生が原爆の犠牲になりました。平坦に美しいその道は、今を生きる私たちへ、静かに当時の残酷さを伝えてきます。
 平和大通りを抜け、爆心地から380mにある旧日本銀行広島支店へ。雨のなか、参加者たちは80年前の地獄を知る建物を見上げます。甚大な被害を受けながら、被災して営業が不可能となった市内の各金融機関のために、原爆投下から2日目の8月8日から窓口を開きました。

いのちの伝言板

 その後、袋町小学校平和資料館へ行きました。当時100人余りの児童と教職員のほとんどが犠牲になりました。木造校舎はすべて倒壊・全焼し、唯一鉄筋コンクリート造りだった西校舎だけが外郭のみ原型をとどめ、避難場所や救護所として、児童や教職員、地域の人びとの安否を確認する場となりました。人びとは、焼けた壁に伝言を記しました。資料館のなかに残されている何重にも重なった伝言の跡に、参加者も息をのみます。
 資料館の案内人は「原爆投下から一カ月後に大きな台風が広島を襲った。2000人以上が亡くなり、行方不明になった。この台風のことはあまり知られていない。原爆投下後の広島は死体に群がるハエで空が真っ暗だった。当時の被爆孤児らは空腹で食べ物もなく石をしゃぶっていた。食べ物を与えてくれる人なら『ヤクザ』でもなんでもついていった」と当時の壮絶な様子を伝えます。参加者からは「壁に残されていた被爆者の消息を知らせる伝言に胸が痛んだ」との感想が出ました。

初めて知る街の歩み

 その後、被爆建物アンデルセン(旧帝国銀行広島支店)へ向かいました。爆心地から360mで被爆し、建造物は天井や壁など大部分が崩壊しました。当時の建物の様子を映す原爆被災説明板に参加者はシャッターをきります。建物のある本通りは、多くの人びとが行きかう活気ある道です。現代を生きる私たちに「日常の上に落とされた」という平井さんの言葉が響きます。
 広島城も原爆投下時に倒壊。1958年に復元されました。広島市内が原爆で壊滅的な被害を受けたなか、旧陸軍中国軍管区司令部は、半地下式の建物で全壊を免れました。働いていた女子学生が、軍用電話で「広島市が新型爆弾で全滅」と外部へ伝えたとされています。跡地では、平井さんが当時の様子を参加者に語りました。

後世につなぐ思い

 参加した青年職員からは「知らないことが多くて驚いた」との声が。被ばく問題委員会の雪田慎二副委員長(医療生協さいたま・医師)は「まだまだ見ていないもの、知らないことがたくさんあることを実感し、被ばくの実相を知るうえで勉強になった」と感想をのべました。
 「今年は戦後80年という大きな節目。職員のなかでも平和への意識が薄れてしまっているように感じる。街の被害をめぐり学ぶことで、戦争は日常を一度に奪ってしまうものだと伝えたい。私たちの医療・ケアも平和があってこそ成り立っている」と平井さんは語りました。

(民医連新聞 第1833号 2025年7月21日号)

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